けいおんのキャラに「内面」はあるのか?

分からないなりにも流れを追えるだろうか? カテは哲学なんだけどないので社会学にした。 他にもあった けいおん!内面論争 - Togetter http://bit.ly/T9BLuY
26
@hallucinyan

僕が内面と呼んだものは近代文学的な「死にゆく私」や「成熟という困難」を語る主体といったものです。それはもちろんネーション=ステートという制度がもたらした透明な文体と透明な風景によって形成されたものだった。しかし、半透明性というものもある。それがマンガ・アニメ的リアリズムだ。

2012-08-03 01:19:57
@hallucinyan

半透明性とはなにか。それは記号的身体に死にゆく私をインストールされた両義的な主体である。大塚英志は次のように言う。「新井素子は身体が記号であるアニメ的世界で「私」を描き「死」を描く」と。これがマンガ・アニメ的リアリズムだ。

2012-08-03 01:22:41
@hallucinyan

けいおん!は 「死にゆく私の内面性を記号的身体に宿らせる」という手塚的半透明性に対し「死を考えず成熟しない私を自然主義的身体に宿らせる」という反転、すなわち「逆半透明性」がある。京アニは実に女子高生的な身体の肉感を「アニメーションの運動性」のもと表現する事に成功している。

2012-08-03 01:25:03
@hallucinyan

だがけいおん!には近代的制度としての内面、すなわち死にゆく私や成熟の問題が欠けている。成熟の困難という手塚的主題がけいおん!に現れていないのは、彼らのモラトリアムな関係に現れている。また、不安や死も徹底排除され、成熟という問題に欠かせない親も登場しない。

2012-08-03 01:27:22
@hallucinyan

このような近代的成熟の拒否は、しかし、宇野常寛の言う「小さな成熟」とも異なる。小さな成熟とは「終わりを見つめながらそれでも可能性のある日常を生きること」である。しかし、けいおん!キャラは死や不安に襲われることもないし、卒業が終わりであるわけでもない。同じ大学に行ってハッピーだ。

2012-08-03 01:31:20
@hallucinyan

けいおん!は近代的成熟でもポストモダン的成熟でもなく、単にモラトリアムなのだ。

2012-08-03 03:08:58
@hallucinyan

不安もなければ死もない。大学もみんなで一緒に行く。それはあまりにもハッピーなモラトリアムだ。ユートピアだと言っていい。しかし、ユートピアとは語源的には「どこにもない場所」である。そのどこでもなさを隠蔽してどこかに在らしめる「詐術」が必要だ。

2012-08-03 01:36:43
@hallucinyan

ちなみにあの宇野常寛さえもあの箱庭を「幻想」だと言っている。

2012-08-03 02:02:41
@hallucinyan

ハイデガーは世界に対する現存在の根本的情態性は「不安」であると述べた。存在論。ラカンの現実界はこの無と関わってくる。現実界とは外傷性であり、痛みである。現実界は現実に突如舞い込む「事件」であり、それはいろんな場合経験される。それが近代的な内面とともにクリーンに排除されている。

2012-08-03 02:07:03
@hallucinyan

その詐術こそが京都アニメーションによる「身体の存在感」だ。実に女子高生的な身体の機微、動き、肉感。それを「アニメ的運動性」によって表現した。この映像のリアリティがユートピアの虚構性を補完したのだ。つまり、けいおん!は映像作品としてとても「ここにある」感を出せたのだ。

2012-08-03 01:40:06
@hallucinyan

とはいえ、ユートピア性を隠し通せたわけではなかった。事実、「みんなで同じ大学に行く」というモラトリアムは、ネット上で大きな非難を浴びた。蛸壺屋はこの非難の声の具象化と言っていい。澪がメンヘラひきこもりになるのがいかにリアルであるか。それでも、けいおん!は美しい。

2012-08-03 01:42:27
@hallucinyan

またけいおん!の内面のなさについては、ハイデガーの現存在分析が手がかりになるでしょう。頽落した現存在は死を直視しない。「空談」「好奇心」「曖昧性」が頽落した現存在の諸特徴である。けいおんのキャラはおしゃべりで死を隠蔽し、好奇心で動き、自らの死を知らない。

2012-08-02 20:01:28
@hallucinyan

けいおん!は理想化された頽落した現存在です。現実の人間は死を忘れていると言っても当然それを思い出すし悩むでしょう。その外傷性がけいおん!においてはクリーンに除去されているのです。

2012-08-02 20:36:16
@hallucinyan

しかし、ハイデガーとニーチェには差異がある。ハイデガーは「死に向かえ!それが精神を目覚めさせる根本規定だ!」と述べた。これは重い立場だ。たしかにニーチェの運命愛もそのように読み解くことができる。しかし、ニーチェは「重みに耐える駱駝」から「軽やかな幼子」になれと述べた。

2012-08-02 20:40:24
@hallucinyan

ドゥルーズは「肯定することは、存在するものを請け負うこと、引き受けることではなく、生きているものを解放し、その重荷を降ろすことことである。肯定すること、それは軽くすることである」と述べている。平沢唯のゆるふわさはドゥルーズのいう「肯定」「軽くすること」であるだろう。

2012-08-02 20:45:54
@hallucinyan

@dokaisha ハイデガー『形而上学入門』を読んでください。死を思うことは「精神」を目覚めさせる根本条件だと述べています。さらに、前述した通り、僕は内面を死と成熟に象徴させています。これは批評業界では一般的なことです。

2012-08-02 22:58:15
高瀬康司@『アニメ制作者たちの方法』 @takase_merca

そういえば、アニメルカ特別号『反=アニメ批評 2012summer』も昨日入稿済ませて、今日不備による再入稿も済ませてます。いい本できた。告知とかはまたこんどー(※GW締切の杉田悠先生の原稿はまだ受け取れておりません)

2012-08-01 01:14:38
高瀬康司@『アニメ制作者たちの方法』 @takase_merca

ちょっと凝った作りにしていたため・・・! でもそのぶんいい本ができました! RT @murakami_kun: 不備による再入稿、、、だと、、、。RT: そういえば、アニメルカ特別号『反=アニメ批評 2012summer』も昨日入稿済ませて、今日不備による再入稿も済ませてます。

2012-08-01 01:39:17
泉信行 @izumino

とまれ@iwa_jose さんに共有 RT @hallucinyan: 大塚英志自身が「新井素子は身体が記号的であるアニメ的世界観で「私」を描き、「死」を描く」と『サブカルチャー文学論』において述べていますね。それが反転するとけいおん!になるというのが杉田悠の指摘なのですが。

2012-08-02 01:13:38
泉信行 @izumino

@hallucinyan @sugita_u ブコメについてのご意見お返しします。本題の前にまず知っていてほしいのは、批評に無謬性は存在しないということです。もちろん批判を加える側が誤謬を含むことが多いのも事実ですが、批評ならば大塚も批判されるべきだし、東も批判されるべきでしょう

2012-08-02 17:04:41
@hallucinyan

つらぽよ本、千葉雅也や滝本竜彦のインタビューを載せたかったのだけど断られた。でも中原中也賞を受賞した三角みづ紀さんが書いてくれることになったので満足です

2012-08-02 17:04:57
泉信行 @izumino

@hallucinyan @sugita_u 当然、それらを援用した二人の批評も批判される誤謬を含みうるのが批評としての自然で、悪意があって批判したいわけではないと解っていただければ幸いです。ただ、漫画研究者の観点からいうと、お二人の論には→

2012-08-02 17:08:19
泉信行 @izumino

@hallucinyan @sugita_u 先行研究への「批判的検証」が含まれていない、という点をもって第一の批判に挙げられると思います。援用した論への検証がなく、無謬のものとして分析に用うるなら、それは現実を分析したものではなくただの批評ゲームに陥るだけだと思います

2012-08-02 17:12:08
泉信行 @izumino

@hallucinyan @sugita_u で、本題ですがアニメルカ所収の「『けいおん』の偽法」には大きく二点の論理的飛躍があります。参考文献に対する誤読や無批判さとは別の次元の、論理学的に成立していないという記述の問題です。

2012-08-02 17:16:10
泉信行 @izumino

@hallucinyan @sugita_u 反アニさんにも実は既に伝えています。で、それを援用したhallucinyanさんにとっては、当然「批判的な検証」を加えるべきポイントにもなるかと思います。では順番に指摘するとp38のこのあたり http://t.co/rc092b6M

2012-08-02 17:21:22
拡大
1 ・・ 9 次へ