けいおんのキャラに「内面」はあるのか?

分からないなりにも流れを追えるだろうか? カテは哲学なんだけどないので社会学にした。 他にもあった けいおん!内面論争 - Togetter http://bit.ly/T9BLuY
社会学
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@hallucinyan
僕が内面と呼んだものは近代文学的な「死にゆく私」や「成熟という困難」を語る主体といったものです。それはもちろんネーション=ステートという制度がもたらした透明な文体と透明な風景によって形成されたものだった。しかし、半透明性というものもある。それがマンガ・アニメ的リアリズムだ。
@hallucinyan
半透明性とはなにか。それは記号的身体に死にゆく私をインストールされた両義的な主体である。大塚英志は次のように言う。「新井素子は身体が記号であるアニメ的世界で「私」を描き「死」を描く」と。これがマンガ・アニメ的リアリズムだ。
@hallucinyan
けいおん!は 「死にゆく私の内面性を記号的身体に宿らせる」という手塚的半透明性に対し「死を考えず成熟しない私を自然主義的身体に宿らせる」という反転、すなわち「逆半透明性」がある。京アニは実に女子高生的な身体の肉感を「アニメーションの運動性」のもと表現する事に成功している。
@hallucinyan
だがけいおん!には近代的制度としての内面、すなわち死にゆく私や成熟の問題が欠けている。成熟の困難という手塚的主題がけいおん!に現れていないのは、彼らのモラトリアムな関係に現れている。また、不安や死も徹底排除され、成熟という問題に欠かせない親も登場しない。
@hallucinyan
このような近代的成熟の拒否は、しかし、宇野常寛の言う「小さな成熟」とも異なる。小さな成熟とは「終わりを見つめながらそれでも可能性のある日常を生きること」である。しかし、けいおん!キャラは死や不安に襲われることもないし、卒業が終わりであるわけでもない。同じ大学に行ってハッピーだ。
@hallucinyan
けいおん!は近代的成熟でもポストモダン的成熟でもなく、単にモラトリアムなのだ。
@hallucinyan
不安もなければ死もない。大学もみんなで一緒に行く。それはあまりにもハッピーなモラトリアムだ。ユートピアだと言っていい。しかし、ユートピアとは語源的には「どこにもない場所」である。そのどこでもなさを隠蔽してどこかに在らしめる「詐術」が必要だ。
@hallucinyan
ちなみにあの宇野常寛さえもあの箱庭を「幻想」だと言っている。
@hallucinyan
ハイデガーは世界に対する現存在の根本的情態性は「不安」であると述べた。存在論。ラカンの現実界はこの無と関わってくる。現実界とは外傷性であり、痛みである。現実界は現実に突如舞い込む「事件」であり、それはいろんな場合経験される。それが近代的な内面とともにクリーンに排除されている。
@hallucinyan
その詐術こそが京都アニメーションによる「身体の存在感」だ。実に女子高生的な身体の機微、動き、肉感。それを「アニメ的運動性」によって表現した。この映像のリアリティがユートピアの虚構性を補完したのだ。つまり、けいおん!は映像作品としてとても「ここにある」感を出せたのだ。
@hallucinyan
とはいえ、ユートピア性を隠し通せたわけではなかった。事実、「みんなで同じ大学に行く」というモラトリアムは、ネット上で大きな非難を浴びた。蛸壺屋はこの非難の声の具象化と言っていい。澪がメンヘラひきこもりになるのがいかにリアルであるか。それでも、けいおん!は美しい。
@hallucinyan
またけいおん!の内面のなさについては、ハイデガーの現存在分析が手がかりになるでしょう。頽落した現存在は死を直視しない。「空談」「好奇心」「曖昧性」が頽落した現存在の諸特徴である。けいおんのキャラはおしゃべりで死を隠蔽し、好奇心で動き、自らの死を知らない。
@hallucinyan
けいおん!は理想化された頽落した現存在です。現実の人間は死を忘れていると言っても当然それを思い出すし悩むでしょう。その外傷性がけいおん!においてはクリーンに除去されているのです。
@hallucinyan
しかし、ハイデガーとニーチェには差異がある。ハイデガーは「死に向かえ!それが精神を目覚めさせる根本規定だ!」と述べた。これは重い立場だ。たしかにニーチェの運命愛もそのように読み解くことができる。しかし、ニーチェは「重みに耐える駱駝」から「軽やかな幼子」になれと述べた。
@hallucinyan
ドゥルーズは「肯定することは、存在するものを請け負うこと、引き受けることではなく、生きているものを解放し、その重荷を降ろすことことである。肯定すること、それは軽くすることである」と述べている。平沢唯のゆるふわさはドゥルーズのいう「肯定」「軽くすること」であるだろう。
@hallucinyan
@dokaisha ハイデガー『形而上学入門』を読んでください。死を思うことは「精神」を目覚めさせる根本条件だと述べています。さらに、前述した通り、僕は内面を死と成熟に象徴させています。これは批評業界では一般的なことです。
高瀬康司@『アニメ制作者たちの方法』発売中 @ill_critique
そういえば、アニメルカ特別号『反=アニメ批評 2012summer』も昨日入稿済ませて、今日不備による再入稿も済ませてます。いい本できた。告知とかはまたこんどー(※GW締切の杉田悠先生の原稿はまだ受け取れておりません)
高瀬康司@『アニメ制作者たちの方法』発売中 @ill_critique
ちょっと凝った作りにしていたため・・・! でもそのぶんいい本ができました! RT @murakami_kun: 不備による再入稿、、、だと、、、。RT: そういえば、アニメルカ特別号『反=アニメ批評 2012summer』も昨日入稿済ませて、今日不備による再入稿も済ませてます。
泉信行 @izumino
とまれ@iwa_jose さんに共有 RT @hallucinyan: 大塚英志自身が「新井素子は身体が記号的であるアニメ的世界観で「私」を描き、「死」を描く」と『サブカルチャー文学論』において述べていますね。それが反転するとけいおん!になるというのが杉田悠の指摘なのですが。
泉信行 @izumino
@hallucinyan @sugita_u ブコメについてのご意見お返しします。本題の前にまず知っていてほしいのは、批評に無謬性は存在しないということです。もちろん批判を加える側が誤謬を含むことが多いのも事実ですが、批評ならば大塚も批判されるべきだし、東も批判されるべきでしょう
@hallucinyan
つらぽよ本、千葉雅也や滝本竜彦のインタビューを載せたかったのだけど断られた。でも中原中也賞を受賞した三角みづ紀さんが書いてくれることになったので満足です
泉信行 @izumino
@hallucinyan @sugita_u 当然、それらを援用した二人の批評も批判される誤謬を含みうるのが批評としての自然で、悪意があって批判したいわけではないと解っていただければ幸いです。ただ、漫画研究者の観点からいうと、お二人の論には→
泉信行 @izumino
@hallucinyan @sugita_u 先行研究への「批判的検証」が含まれていない、という点をもって第一の批判に挙げられると思います。援用した論への検証がなく、無謬のものとして分析に用うるなら、それは現実を分析したものではなくただの批評ゲームに陥るだけだと思います
泉信行 @izumino
@hallucinyan @sugita_u で、本題ですがアニメルカ所収の「『けいおん』の偽法」には大きく二点の論理的飛躍があります。参考文献に対する誤読や無批判さとは別の次元の、論理学的に成立していないという記述の問題です。
泉信行 @izumino
@hallucinyan @sugita_u 反アニさんにも実は既に伝えています。で、それを援用したhallucinyanさんにとっては、当然「批判的な検証」を加えるべきポイントにもなるかと思います。では順番に指摘するとp38のこのあたり http://t.co/rc092b6M
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コメント

Fav__ͮn̊ĭn̊eͮ @fav__nine 2012年8月3日
90年台後半は、こういったやり取りをまとめたアニメ読本なるものがよく出版されてました…まさにそれと同じ雰囲気で懐かしい。でも、アニメを制作した側からすれば大半は失笑モノだったとか。
富 ユタカ @lkj777 2012年8月3日
まとめを更新しました。
りそーすななじゅう @resources70 2012年8月3日
このまとめ、フラット(外面)/ラウンド(内面)論かと思ったら、フラットから見た内面って狭い界隈の評論だったな。というかそもそも論として”空気系(not日常系)”って括りで論議すると、内面なんか証明できないじゃんね?
いかれるまぐろうさぎ @miruna 2012年8月3日
蛸壺屋のつまんねー薄い本をリアルだとか言ってのける昭和でロックの認識が止まってるような低能は二度と音楽にまつわる作品を語るべきではない。ToHeartキャラを原哲夫の絵柄で描いたギャグと同じ類のギャグ漫画をリアルと言ってのける間抜けさには頭が下がる思いですわおほほほほ。
中敏悟 @shiwazanin 2012年8月3日
「虐待される美少女ブヒィィィすっぽんぽんブヒィィィ」と同人誌で萌えサカッた後、「いやこれは『実在性』を剥ぎ取られた『キャラ』に『身体性』と『精神性』を『補完』する『試み』に興味を抱いたわけで」などといった「普段の僕は頭いいんです」アピールで己の「ゲスな身体性」への言い訳をするのが現代の哲学や評論であるのなら、ンなもんさっさと死ねばいいのに、と思いました。
junshoku-159(純色イチゴ球) @junshoku_159 2012年8月3日
お話を暗くしなきゃだめな人がいるのか… いまだに。ある意味哀れな考え方だねぇ。 
@hallucinyan 2012年8月4日
僕はけいおん!が明るいから悪いなんて言ってない。その底抜けのユートピア性(幻想)にリアリティを持たせた京アニの身体性の確保、アニメ的運動性が素晴らしいと言っている。
@hallucinyan 2012年8月4日
ちなみにけいおん!が近代的成熟がないのは自明ですが、ポストモダン的成熟(宇野常寛の言う小さな成熟、つまり終わりを見つめながらそれでも可能性に溢れたを生きること)もないということです。唯一ポストモダン的成熟っぽいものに至れたのがあずにゃんでしょうか。しかし他の四人はモラトリアムが強くでている。
@hallucinyan 2012年8月4日
あまりにも平沢唯は幸福すぎる。そのことへの反作用が蛸壺屋です。モラトリアムを拒否してみんなバラバラだけれど小さな成熟をするというのがあの三部作です。
@hallucinyan 2012年8月4日
僕らはつらい現実を生きているからこそけいおん!で癒されるわけです。その癒しがいかにうまく作られているかという点で京アニが優秀だったということです。
@hallucinyan 2012年8月4日
宮台真司が言うように、まったりしていると思っていた女子高生たちはみんなメンヘラ化していった。ポストモダン化による世界の無意味さはやはり耐え難い。だから蛸壺屋を読むと実存的にグッと来るし、けいおん!という巧妙に作られた作品を見ると癒される。
北守 @hokusyu82 2012年8月6日
まあ作品を「死を直視する」ものとそうでないものに分類し分析すのはたいへんお趣味が悪うございますねで終わる話なのですが、両者を形式としてまったく異なったものとして議論するのではなく、後者は前者の欠如であるにすぎないことをまず前提として議論するのは、後者の作品群にたいして悪意があると解釈されても仕方ないでしょうね。
いかれるまぐろうさぎ @miruna 2012年8月6日
気持ち悪いメンヘラ男が自分の胡散臭いファッションメンヘルを都合の良い美少女に押し付けた上で殺して自分を浄化するっつーどこぞのエロゲ宗教と全く同じ事言っててうんこすぎるし死ぬのは自分だけにしとけよつーかこの世の女子高校生はみんなメンヘラであってほしいというお前の願望と現実の区別ぐらいつけろ基地外
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