イギリス海軍史

海軍の歴史をイギリスを中心に
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@bukrd405

現在、海軍という意味のネービー(navy)は、もともとその国の船舶と船乗りのすべてを包括していう言葉だった。海からその国を襲う外敵があれば、商船でも漁船でも、船という船を動員して防ぎ、ことが無ければそれぞれの仕事に戻るというのが本来の姿だった。

2012-08-02 12:25:13
@bukrd405

戦士はそのたびに貴族に率いられて船に乗り込み敵と戦った。戦士を率いる隊長がキャプテン(captain)で、それを補佐する副官または代官がリューテナント(lieutenant)だった。

2012-08-02 12:28:12
@bukrd405

したがって、戦争が起こると本来の船長であるマスター(master)は、キャプテンの命令のままに船を動かしたのである。

2012-08-02 12:29:25
@bukrd405

14世紀に入って間もなく、イギリス沿岸における海上防備の責任は、テームズ川の川岸を境界とする北部と西部の二つの海域の司令官に委ねられた。いわゆる北部提督(Admiral of North)と西部提督(Admiral of West)である。

2012-08-02 12:33:44
@bukrd405

しかし、戦争の場合には、その担当区域に混乱を生じる恐れがあるため、エドワード3世は連合艦隊の指揮権のみを持つ提督一人を任命することにした。

2012-08-02 12:35:55
@bukrd405

すなわちイギリス提督(Adomiral of England)であるが、1360年に最初の任命が行われてからも、その職は必要に応じて設けられる断続的なものだった。それが恒常的な任命になったのは、1391年、リチャード2世のときである。

2012-08-02 12:36:39
@bukrd405

ルトランド伯エドワードが任命され、イギリス海軍の指揮統率と海上における諸問題に関するすべての責任を持つ重臣として、彼は枢密院に永久議席を与えられる宮廷高官の一人となっわけである。海軍本部の最高責任者が公式に決定したのであるから、この時をもって英国海軍が成立したと考えてもよい。

2012-08-02 12:45:40
@bukrd405

ただ、少々単純すぎるのは、海軍本部はあっても、その指揮下におく常備海軍が存在しない点である。したがってしばらくの間は、その地位に付随する法律上の義務だけが海軍本部長の職務であった。

2012-08-02 12:48:41
@bukrd405

イギリス提督の称号はハイ・アドミラル(High Admiral)とかロード・アドミラル(Lord Admiral)とか無差別に用いられたものを、やがて統合してロード・ハイ・アドミラル(Lord High Adomiral)ということに落ち着いた。

2012-08-02 12:58:16
@bukrd405

イギリス王廷で9番目に設けられた高官だった。

2012-08-02 13:00:29
@bukrd405

ヘンリー8世は職業化された海軍軍人の組織化を図り、艦隊指揮法や乗組員の訓練に関する規則を制定しようとした。さらに数十隻の艦隊に成長したイギリス海軍の管理を、旧来のようにただ一人の海軍本部長だけに任せておけなくなったので、

2012-08-02 13:10:22
@bukrd405

(承前)その職務の大部分を海軍委員会(Navy Board)に移して、艦船の建造および修理、武器および糧食その他の需品に関する一切の責任を負わせることにした。

2012-08-02 13:13:33
@bukrd405

艦隊の指揮権はもちろん海軍本部(Board of Admiralty)にあり、艦隊の要望は海軍本部から海軍委員会に伝えられて処理されることになった。海軍本部と海軍委員会の二本立制度は委員会の成立した1546年から、1832年に海軍省として一体化されるまで事実上継続した。

2012-08-02 13:14:37
@bukrd405

サミュエル・ピープスの時代、社会通念として身分差別は、実に歴然としていた。陸軍の組織がそのまま海上に移されたイギリス海軍の艦内生活も、全く同じことであった。家柄さえ良ければ20代の若さで将官になり、水兵は死ぬまで勤めても下士官になることさえおぼつかなかった。

2012-08-02 13:30:56
@bukrd405

フォア・マストの前に住む水兵たちとクォーター・デッキの士官たちとでは、その日常生活に雲泥の差があった。両者は、まったく異なる基準の中で生きていた。当時の軍艦における生活状態は、今日のわれわれの価値判断では、とうてい律しきれないほどひどいもであった。

2012-08-02 13:34:15
@bukrd405

居住区、食糧、健康のあらゆる面、とくに過失を犯した者に課される処罰など、想像もできないようなことばかりであった。海上に出た軍艦では、人の生命は細い糸の先にぶらさがっているようなものであった。現代社会では簡単に治癒し、また避けることのできるような病気でさえ、

2012-08-02 13:37:21
@bukrd405

(承前)どんどん人の命を奪っていった。病気よりも負傷の方がまだしもであった。病気を治す方法はなかったが、負傷は幸運にも治ることがあった。子供がどんどん生まれても、生き残る人数はわずかだといわれる時代であった。生きることの難しさが普通であった。

2012-08-02 13:38:56
@bukrd405

そんな時代であるから、いったん船乗りとなって海に出てしまえば、陸では姿も見えないところから、すぐに忘れられてしまった。陸にいるときの船乗りの行動には、無責任で馬鹿げた振舞が多く、そのため彼らの境遇に対する同情もなかった。

2012-08-02 13:42:16
@bukrd405

だからといって、同じ人間が陸上で別の仕事をすることを考えた場合、食糧や居住区など、船内の労働条件より良くなるということはなかった。むしろ、船の方が良かったのかもしれない。

2012-08-02 13:44:09
@bukrd405

陸上でも年季奉公人は、たいていベンチやカウンターの下など、「ジャックのハンモック(Jack's hammock)と呼ばれた水夫の寝床よりずっと悪い場所で眠らねばならなかったのである。

2012-08-02 13:44:30
@bukrd405

ただ、処罰の方法だけは、当時の陸上社会でも比較のしようもないほど厳しく、野蛮であり、また嗜虐的でさえあった。しかし、海上における船舶の安全は、きわめて厳格な乗組員の統制によって守られる、と信じられていた。

2012-08-02 13:53:43
@bukrd405

・・・水兵に対するピープスの同情は、給料の遅配という、イギリス海軍にとっては、はなはだ不名誉な問題にあった。海軍ばかりでなく、王室造船所の職人たちも同じような目にあっていた。大蔵省は税収をあげるのに四苦八苦していたが、追いつかなかった。

2012-08-02 13:55:49
@bukrd405

窮余の一策として、イギリス海軍は給料の代わりに手形を発行した。この手形は、海軍本部に現金がある限り、必ず交換できることを約束したものであった。本来、給料の代わりに手形を発行する方法は、軍艦に多額の現金を積みこむことから生ずる危険を避けるための、古くから用いられた便法である。

2012-08-02 13:58:39
@bukrd405

しかし、その日の暮らしに困る水兵の家族たちは、いつのことかわからない換金を待つよりも、たとえ25%以上もの手数料を差し引かれても、すぐ現金と換えてくれる悪徳両替屋の門へ走った。その結果、彼らの窮乏はひどくなる一方であり、そのような事態を招いた海軍当局は、

2012-08-02 14:02:46
@bukrd405

(承前)水兵たちの粗暴な行動を非難することさえできなくなってしまった。第二次英蘭戦争が一息ついた1666年9月、ロンドンに起こった大火は、イギリス海軍の窮乏を決定的なものにした。海軍本部の業務は停止されたままになり、水兵の補充は不可能も同然になった。

2012-08-02 14:04:28