項の重要性は、地図を見れば分かる。ここは百尺堰があり、水路が黄河まで続いている。潁水と黄河を結ぶ運河の始点になるのだ。司馬懿が王淩を討伐した際、都を出た軍は、水路を通り百尺(項)に至った。これが洛陽から寿春へ向かう主たる街道だったのである
2012-08-06 00:55:45項の重要性は、あそこを中心に内線作戦をする際に際立つ。カン丘倹が項に拠った時、魏側は洛陽からの主力と、許昌からの先鋒と二つの軍が項に迫ることが予想された。カン丘倹は、許昌の王基を叩き、司馬師率いる本隊との合流を防ぎ、かつ、その意気を挫くことを考えていたのだろう
2012-08-06 08:03:52カン丘倹が南頓を制しようとした理由もそこにある。王基に先んじて南頓を制し、彼らが物資を補給に頼らざるを得ない状況を作ることで、王基を戦闘に引きずり込もうとしたのだ。本隊については、最悪、穎水を盾にある程度は持久できる見込みがあったのだろう。最も、文欽の敗北を見るとそれは甘かったが
2012-08-06 08:10:11しかし、王基に南頓に入られてしまったため、許昌軍に項の間近で本隊を待てるだけの持久力を与えてしまった。こうなってはもう手詰まりで、何らかの事情(郭淮の蜂起など)で敵に隙が生じるのを待つしかなくなった
2012-08-06 08:17:43カン丘倹が南頓制圧を含めた内線作戦を企図していたとして、それを阻止した王基の判断は、確かに優れていたと言えよう。では、王基の行動を制しようとした司馬師はどうなのか?
2012-08-06 10:26:31こういう場合、「王基が正しかったのだから、司馬師は間違っていた」と性急に判断してしまいがちである。しかし、成功と逆の判断が、必ずしも失敗であるとは限らない。どちらについても検討が必要だ
2012-08-06 10:28:40司馬師には、戦闘避ける理由があった。まず、カン丘倹の軍は、新たに赴任した都督に無理矢理従わされただけの集団であり、士気も低く、早晩瓦解するものであったこと。また、項と寿春を遮断するように、別に軍を動かしていることだ。
2012-08-06 10:32:52司馬師にしてみれば、南頓を制され敵に食料を奪われようと、大勢は覆らないことは分かっていた。それよりも、王基が前進によって不意にカン丘倹と遭遇し、一戦する羽目に陥る方が危険だった。もし王基が負ければ、敵の士気は上がり、こちらの士気は阻喪する。戦略が大きく崩れる
2012-08-06 10:35:42ぶっちゃけ、カン丘倹の戦略は、豫州の諸葛誕がなびかなかった時点で、半ば破綻してる。許昌の軍と洛陽からの本隊に加え、豫州が側面を脅かしている状況では、逆転は非常に難しい。逆に、諸葛誕がなびいていたら、かなり変わっていた
2012-08-06 12:16:25王基の判断と司馬師の判断とを比べた場合、トータルでは司馬師の方が確実だし、理に適っている。しかし、これは、どちらが上という話ではなく、彼らは判断の根拠が異なっていたということだろう。王基は現場で得られた情報をもとに最善を尽くし、司馬師は本営で得られた情報をもとに最善を尽くした
2012-08-06 12:54:43戦役の流れ
まずは全般体勢から解説する。嘉平六年(254年)九月、一部の廷臣による司馬師の更迭計画に端を発した反司馬氏の陰謀は、関係者の処断と皇帝の廃位という結末を見た。これによって、魏帝国内の、司馬氏への迎合を善しとしない勢力の不満は最高潮を迎えた。
2012-08-07 01:37:54明くる年(正元元年、255年)正月、都督揚州諸軍事として寿春に赴任していた毌丘倹、それに揚州刺史として同じく寿春に赴任していた文欽が、反司馬師の兵を起こす
2012-08-07 01:40:26毌丘倹の要求は以下のようであった。一、司馬懿は魏室に心を尽くした忠臣である。一、その子の司馬師は帝室を蔑ろにし、専横を行う奸臣である。一、司馬師の弟の司馬昭、叔父の司馬孚は善良で君子の風を持つ。一、司馬師を廃し、弟の司馬昭に代わらせるべきである
2012-08-07 01:47:42ここで、寿春について説明を加える。寿春は揚州都督(揚州方面軍司令官)の駐屯地であり、揚州の対呉戦線の司令部であった。魏の揚州方面軍は、長らく合肥を防衛の要としており、且つ、都督麾下の軍も兵力が小さかったため、常に中央軍の援軍が必要だった http://t.co/dp3g1suo
2012-08-07 02:00:30それが転機を迎えたのが、正始二年(241年)である。司馬懿に見出され、当時尚書郎だった鄧艾の発案により、寿春周辺での運河掘削と屯田が進められ、正始二年にその計画が完成を見たのである。これ以降、楊州都督の擁する兵力は十万にも達し、独力で呉に抗し得る戦力を持つに至ったのである
2012-08-07 02:03:53