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近藤功司 @kondoukoushi
よき文藝に接する意味と言うのは、いちど自分を捨てて、その作品をよきものとして受容し、それが出来ない部分について、自分に何が足りないかを考えるという過程を通じて、自分が成長するということなのさ。つまんねーとか、自分向きの作品じゃなかったとか言ってて、どうやって成長すんのさ。
近藤功司 @kondoukoushi
前のツイートで、「よき文藝に接する意味」と言うものについて考察したが、これはもう映画でも、ゲームでも、およそ何にでも当てはめることができる原理である。ひょっとしたら、人間が作っているものすべてに当てはめることができるかもしれないとすら、思う。
近藤功司 @kondoukoushi
自分ではない”ある人”の生き方をみて(あるいは聞いて)、何かしら受容できないものがある場合、いちど自分を捨てて、その行為をよきものとして受容し、自分に何が足りないか考えるという過程は、無駄ではないと思う。
近藤功司 @kondoukoushi
だが、多くの場合、”生きている”・・・、そう”実際にそこに”生きている人の行為や、物言いを、限りなく”よきもの”として受容するのは、あまりに困難であることが多いと思う。だからこそ、文芸はフィクション、あるいは、ファンタジーとして語られるし、読書には静謐な書斎が必要なのだ。
近藤功司 @kondoukoushi
作品に対するバイヤーズガイド的な評論は、この貴重な過程を危険にさらす場合があると思う。
近藤功司 @kondoukoushi
そしてまた、電子書籍に期待される"ソーシャルリーディング"や、電子掲示板、SNSが開拓した、あまりにコストの低い"感想の共有体験"は、そうした「よき文藝に接する意味」と言うものを、破壊することがありうると思う。
近藤功司 @kondoukoushi
ソーシャルリーディング(ここでは仮にそう呼んでおこう)や、感想の共有装置で、作られるよきものも多数あることを踏まえつつ、よき文藝に接する意味について、ときに思いを深めるのも有効だと思う。
近藤功司 @kondoukoushi
静謐な環境を求めて・・つまり「よき文藝に接するために」・・人は、すでに死んだ太古の作家に語りを求めたり、年月の薫陶を受けた作品を選んだりする。それは、本質的にその作品が優れているからというのもあるが、ある種の距離を前にして、作品の前に、一度ひれ伏してみるという行為を容易にする。
近藤功司 @kondoukoushi
同様のことは、現代の作品でもできる。ファンタジーでなければ、いろいろなノイズがあるだろう。知人やそれに近い作品なら、いっそうそれは増えるだろう。ある種の作品論や、リアリズム追及なども、ノイズとなるだろう。それらは、「よき文藝に接する」という行為にとっては、決定的なノイズだ。
近藤功司 @kondoukoushi
映画であれ、フィギュアであれ、古典的には小説であれ、ときとして実在する人の生き方に含まれる語りであれ、およそ様々なものに接する場合に、「よき文藝に接する」という”向き合い”で、人は有意な時間を得ることができると思う。つまらないという前に、もう一度自分を疑ってみると、面白い。
近藤功司 @kondoukoushi
近代啓蒙主義が盛んに称揚する刃は、文藝にあっては”自ら”に向けられるべきであって、それこそが”政治”と"文藝"を分かつ大きくて深い谷だと、ぼくは理解している。感想が作品に向かうソーシャルは、よき政治を高揚するが、よき文藝を遠ざけている。
近藤功司 @kondoukoushi
よき文藝は、限りなく小さな砂粒に、限りなく大きな刃を突き付けてくる存在であって、その刃は、限りなく降り続ける慈雨のように、砂粒をうるおし、花を育てる。その砂粒は小さいけれど、こんこんと雨に洗われて形を変える。それを成長と呼べば、砂粒はうれしいに違いない。
近藤功司 @kondoukoushi
ツイッターで文藝小論なんて打つと、楽しい仲間が集まってきて、こんな夢のような部屋でわいわいやってたら時を忘れるなーなどと思いつつ、静謐な読書について、思いを巡らす矛盾に悶える。Thank you all.
近藤功司 @kondoukoushi
それこそがまさに、直面する大波なのだけれどね。

コメント

いずみのかな @runco_a 2012年8月9日
「いちど自分を捨て、その行為をよきものとして受容する」「ある種の距離を前にして、作品の前に、一度ひれ伏してみる」。時代や媒体に関わらず、物語に触れるときに大事な心構えは、それが外、他であることへの意識であることで、またそこからじゃないと深く進めないのだと。
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