ニー仏×慈永和尚 対談:「仏陀と阿羅漢」 参
8月8日:弐の続き
ニー仏氏のターンはRTから
ていうか、ニー仏さん中国禅からアプローチするのか。こっちは中国禅なんか全然知らん。禅宗になったのも禅に興味があってなった訳ではなくて、めぐり合わせでなったにすぎないので、話についていけるかどうかも分からんな。また自分は(他の禅僧方とは違って)禅学がスポンと抜け落ちているからなあ。
2012-08-08 02:35:43昨日予告した禅の話だが、先程から色々と資料を見たりしているのだけど、きちんと話そうとすると、また長くなりそうで迷っている。ヘタしたら朱子学のほうまで話題が及んでしまいそうだ。
2012-08-08 15:09:20そんなわけで、慈永和尚もこうおっしゃるし、彼がいちばん気にしている問題のほうからアプローチすることにしてみようと思う。阿羅漢とブッダの問題な。
2012-08-08 15:10:11大人しくついて回ります
少なくとも歴史的人物としてのゴータマ・ブッダは、あくまで一人の非常に優秀な阿羅漢であって、それ以上の存在ではなかったと捉えている。少なくとも、「一切智を備えた無上正等覚者」といった、スーパーマンではなかったと思う。
2012-08-08 15:17:53しかし、歴史上の人物であったゴータマの死後、信徒たちの間で、彼は阿羅漢とは質的にレベルを異にする「ブッダ」として、徐々に神格化され、絶対化され、そして理念(Idee)化されていった。このことが、仏教がその内部から、「大乗」という新しい運動を生み出す契機となったことは周知のとおり。
2012-08-08 15:24:32乱暴な要約であることを承知しつつ、敢えて言い切ってしまえば、「大乗」という運動の本質は、その徒が涅槃という今・ここで到達できる目標を、ブッダという「理念」に置き換えて無限遠に先送りすることで、自らの生を常に「過程の生」と位置づけ、もって「現実性」の価値を肯定したところにある。
2012-08-08 15:31:21そのあたりの機微の一部は、ここ( http://t.co/fWWBi8Yk )に詳述してあるので、ご興味をお持ちの方には、ぜひご参照いただきたいところ。
2012-08-08 15:33:02例えば、このまとめ( http://t.co/JJDBoj5P )で、「前世も夢のようなものだ」と言われているように、和尚は輪廻転生を、さほどシリアスに捉えていらっしゃらないように思われる。
2012-08-08 15:36:49それ自体は、東アジアの仏教者としては一般的な態度だからよいのだけれど、ただ、そのことと、「阿羅漢/ブッダ」の差異にこだわられることの整合が、私の中ではちょっととりにくい。
2012-08-08 15:38:50先ほど述べた「大乗」の原則からすれば、三阿僧祇劫の転生の果てに、「ブッダという理念」を夢見ることで、今・ここの生を「過程の生」とし、それを利他行のために使い切る、ということが、「涅槃」ではなく「無上正等覚」を目指すことの意味である。
2012-08-08 15:42:01逆に言えば、このせいで一途に涅槃を志向するのであれば、いちいち「仏陀」を目指す必要はない。阿羅漢でいいじゃないか、ということになるわけだ。
2012-08-08 15:43:10※「このせいで」は「この生で」の変換ミスと思われる
ここで、話が禅と交錯する。禅は「直指人心・見性成仏」を標榜し、今・この生における成仏を語る。その内実が、いったいいかなるものであるか、ということが、昨日中途で終わった話とも、深く関わってくるわけだ。
2012-08-08 15:45:00というわけで、ご質問です。慈永和尚にとって、「阿羅漢」と「仏陀」の差異とはなんでしょうか? また、その区別をとくに問題とされる意図は、どのあたりにあるのでしょうか? @jiei_yushi001
2012-08-08 15:46:54慈永和尚のターン
まずは独り言