李孝恭は暗殺されたのか?
旧唐書列伝十七の李靖の伝には「四年、靖又陳十策圖蕭銑。高祖従之、授靖行軍総管、兼攝行軍長史。高祖以孝恭未更戎旅、三軍之任、一以委靖」とあるが、うーむ、色々と考えさせられるな……。
2012-08-12 20:32:02まず、(以前に話題になった用語だが)この「行軍長史」は訳すとしたら何が適切か?私は副将と訳すが、参謀総長でもよさそうだし、後に続く文章からは司令官代理でも良さそうだ。が、これも前に話題にしたが李孝恭は決してお飾りではなかったから、司令官代理はあり得ない。となると(続く9
2012-08-12 20:37:53次に、李孝恭について。この記述に先立って冉肇則の反乱の鎮圧に彼が失敗していたのを李靖が鎮圧に成功する、という下りがある。李孝恭は人格も優れていた、と史書にはあるので、彼が李靖を副将にしてくれ、と望んだのかもしれない。
2012-08-12 21:05:34というのも、李靖は秦王府(李世民の府)の人間だが、李孝恭は唐の宗室の重鎮。秦王府に属していたわけでもない。となると、李靖の用兵の才を知った李孝恭が彼を副将として望んだのではないか、と推測するのだが……う~ん、両唐書を精読するか……
2012-08-12 21:14:33「十四年暴薨,年五十」というのを素直に訳すと、 「貞観14年、李孝恭はにわかに死んだ。享年は50歳」という程度になるが、問題は「暴」の字。
2012-08-13 10:39:32この「暴」というのはこういった場合、一義的には「にわかに、突然に」といった程度の意味で、薨は王が死ぬことを意味するから、「突然に世を去った」となるわけだが……。
2012-08-13 10:44:36ただ、この「暴」は突然の死を意味するだけでなく、その「突然死」が何によってもたらされたのかを暗示している場合がある。
2012-08-13 10:47:23李孝恭は唐の宗室の重鎮であり、武勲赫々たる武人でもある。彼の武勲は別働隊を指揮して南方を平定した、という巨大に過ぎるものであった。
2012-08-13 10:53:08また、李孝恭の父の李安(西平王)は隋書列伝第十五、北史列伝第六十三に伝があり、隋朝の下で柱国にまで進んだ人物である。
2012-08-13 10:59:46つまり、李孝恭は単に唐の宗族というに留まらず、有力な名家の出身で、かつ巨大な武勲を挙げ、かつ人望にも能力にも不足の無い人物、ということになる。
2012-08-13 11:02:32太宗の立場からは、危険な人物と見えたことは想像できる。それに、太宗が帝位を望んだのも自身の武勲に対して報われるところが過小ではないか、という不満に起因するところがある。
2012-08-13 11:06:35実の兄と弟さえ野心のために排除した李世民にとって、李孝恭の宗室という立場は危険度を薄めるどころか、かえって増幅させてしまうものだったのではないか?
2012-08-13 11:13:20@rudel101 李世民って中国史上最高の名君とか言われてますが、兄弟排除して父を引退させ、功臣を暗殺ってかなり黒い一面があるんですね。ま、それと名君であることは無関係なのかな。逆に黒いから名君であれたのか。
2012-08-13 11:19:10@law1220 李孝恭に関してはあくまでも私の推測です。(史書を読む人ならば、誰しもが「怪しい」と思うものでもあります)で、李世民については、仰るように父は引退させ、兄弟をぶち殺してまで帝位を手に入れる、という権力欲の権化のような側面があったのは事実でしょう。(続く)
2012-08-13 11:24:13@law1220 しかし、私は貴方が仰る「黒さ」は「自分ならば父や兄よりも良い政治ができる」という自負に半ば起因していたのでは、と思っています。こうしてみると、黒いから名君になれた、というのはあるでしょうね。黒くなければ、そもそも皇帝になれなかったのですから。
2012-08-13 11:29:46@law1220 多分、そういった面もあったのではないかなぁ、と私は思っています、若年の頃より才気に溢れていた李世民ならば、自らの能力に自信があったでしょうし。勿論、先ほどもつぶやきましたが自身の武勲に対して報われるところが少ない、という不満もあったでしょうが。
2012-08-13 11:51:22