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【三国志】蜀漢の国境防衛の変遷について

劉備が漢中を奪ってから、蜀漢が滅びるまでの45年間において、時の司令官が国境の防衛にどう腐心したかを追った。
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Jominian @Jominian

劉備が漢中に魏延を置き、秦嶺に陣地を置いたことと、白水から成都まで駅伝を設けたことは、合わせて考えなくてはならない。劉備の意図を考えるのであれば

2012-08-13 11:42:21
Jominian @Jominian

劉備の駅伝設置について考えると、魏延を評価しない方向にしか話がいかないな

2012-08-13 12:58:46
Jominian @Jominian

白水関から成都まで駅伝を設けたってことは、漢中に何かあったらすぐに情報が入ってくるようにしたってこと。それは、とりもなおさず、すぐに軍が送れる状態にしておいたってことだね。

2012-08-13 16:47:01
Jominian @Jominian

これは、諸陣営を秦嶺に交錯させたことと関係があるのか?これは少し考えないと分からないことだ

2012-08-13 16:49:31
Jominian @Jominian

実は、曹操のそれまでの進軍経路を考えると、秦嶺の守備だけでは片手落ちなのだ。何故なら、曹操は夏侯淵救援の時を除き、常に軍を故道から、つまり秦嶺を避けて進ませている。(夏侯淵救援時も曹休らは故道を行っている)

2012-08-13 16:59:40
Jominian @Jominian

夏侯淵救援の際に曹操が故道を進まなかったのも、夏侯淵らと曹休らが、既に故道方面をおさえていたからに過ぎない。自らも故道を進んでも、道路が渋滞するだけで救援にならなかったからだ。

2012-08-13 17:05:59
Jominian @Jominian

つまり、曹操軍が漢中を襲うとすれば、それは故道から現れると考えるのが当然だ。それでは何故、秦嶺に防御陣地を設けたのか?この記述を読む人は、そこを考えなければならない。

2012-08-13 17:08:29
Jominian @Jominian

実は、今俺が話している内容からも、無理矢理魏延評価に持っていけたりするんだが、俺はそれはしない。

2012-08-13 17:12:59
Jominian @Jominian

参考にすべきは、楊阜伝と張既伝である。ここに、漢中を劉備に奪われた際の曹操の行動と意識が示されている

2012-08-13 17:18:44
Jominian @Jominian

さて、ちょっとだけ続きを。想定し得る曹操軍の進軍ルートが、秦嶺山脈を迂回するものであったことは話した。ではなぜ、劉備は秦嶺にのみ防備を設けたのか?

2012-08-13 23:33:09
Jominian @Jominian

決定的であったのは、劉備が漢中を奪った時の、曹操の行動である。曹操は劉備が漢中を奪うと、そのまま武都の氐を扇動し、北に下弁、或いは関中へと迫られることを恐れた。そのため、張既や楊阜に命じ、武都の吏民や氐族など、多数の民を天水から扶風の一帯に移住させた。曹操得意のヘタレっぷりである

2012-08-13 23:35:57
Jominian @Jominian

この状況を見て、劉備は当面の間に曹操の南下が起こらないことを見抜いた。また、武都を無人に近い土地にしたことで、曹操が故道を通って進軍する際には、これまで以上の困難があることをも見抜いていた。秦嶺の防備さえ十分なら、残余の戦力を陽平関に差し向けられれば漢中は守りきれるのだ。

2012-08-13 23:38:26
Jominian @Jominian

となれば、彼にとって心配なのは、関城を奪われて漢中と四川との連絡が途絶えることだけである。そのため、白水までの駅伝を整備し、関城の守将との連絡を維持して、救援の到着までに変事が起こらないような処置をしたのだ。

2012-08-13 23:41:59
Jominian @Jominian

督漢中の任務は、秦嶺より迫る敵があればこれを阻み、故道より敵の本隊が迫れば、陽平関を押さえて劉備到着まで耐えることにあった。そして、もう一人、劉備の構想に不可欠な存在が、関城を守って漢中と四川を繋ぐ人物である。この関城の防備を任されたのは呉懿であった。

2012-08-13 23:46:48
Jominian @Jominian

しかしながら、劉備が生きている間、この構想が試されることは無かった。魏の攻勢が生じなかったからである。それもそのはずで、劉備の脅威にビビりまくっていた上に瀕死だった曹操が攻め込めるはずも無く、その後を襲った曹丕にも、険しい道を越えてまで蜀を攻める理由が無かった

2012-08-13 23:49:53
Jominian @Jominian

これに最初に手を加えたのが諸葛亮である。彼は建興七年(230年)、沔陽城の南、定軍山の麓に西楽城を築き、沔陽と合わせて漢中の西側を守る巨大な城を築いた。更に、漢の成固県の近くには楽城と呼ばれる城を築いた。西楽城は、沔陽の小城では巨大な丞相府に手狭だったから築いたのだろう

2012-08-13 23:55:02
Jominian @Jominian

楽城はどうか?劉備の制度をそのまま用いるなら、漢中への侵入は秦嶺の険を以って防ぐはずで、漢中盆地に拠点を築く意義は小さいはずだ。したがって、これは、諸葛亮が漢中への敵の侵入を想定していたことを示している。その理由は何か?司馬懿の存在である

2012-08-13 23:57:51
Jominian @Jominian

司馬懿は上庸の孟達を恐るべき速さで討った。これはすなわち、魏軍が漢水を遡上して漢中に侵入できる能力を獲得したことを意味していた。秦嶺にのみ注意を払っていれば、側面より司馬懿が漢中を突く可能性を考慮する必要が生じた。事実、曹真の対蜀攻勢に際して、司馬懿は漢水を遡上し漢中に迫っている

2012-08-14 00:00:34
Jominian @Jominian

こうした状況に対応するには、沔陽は西に偏りすぎていた。漢中の東にあって、秦嶺(子午、駱谷)の敵に加え、漢水を遡る敵にも対応できる戦力と司令部を設ける必要があったのだ。そのために諸葛亮が築いたのが、この楽城である。敵の変化を察知し、即座に防衛戦略の修正を行う辺り、諸葛亮は非凡である

2012-08-14 00:03:11
Jominian @Jominian

諸葛亮は建興八年(230年)の曹真の攻勢に伴い、将兵二万に加えて李厳をも呼び寄せた。これは、前年に完成した西楽、楽の二城を用いた戦略を実行に移すためである。恐らく李厳は、麾下の二万と共に楽城に入ったのだろう。東方の敵に臨機応変に対応する司令官としての役目が李厳にあったのだ

2012-08-14 00:06:05

間違いの訂正

Jominian @Jominian

今思い出したが、曹真の遠征の時は、諸葛亮は城固(楽城)に入ってるじゃん。確か後主伝にあったはず。司馬懿の相手は諸葛亮だ。李厳が西楽城だな。大筋に影響ないけど、赤っ恥だな。まとめにこのツイートを追加しておこう

2012-08-14 02:22:11

Jominian @Jominian

あれ?読み返したら建興七年を230年にしている。229年の間違いである

2012-08-14 00:06:32
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コメント

Jominian @Jominian 2012年8月14日
まとめを更新しました。
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Jominian @Jominian 2012年8月14日
まとめを更新しました。地図追加
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