- honeywave3
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母が朝鮮へ渡ったのは、太平洋戦争の最中 ー1942年の春。山梨県大月町の電話中継所で働いていた父親(僕の祖父)の転勤で、朝鮮平安北道定州邑定州へ。加納丘国民学校と呼ばれる日本人学校に通う。四年生。母は1933年生まれ。戸籍上は10月だけど、本当は1月生まれだって言ってたんだよな。
2012-08-15 21:00:00母は朝鮮で終戦の日を迎える。その時、一人でラジオの前に座っていた。12歳の母が、天皇の声から聞きとれたすべては、「戦争が中止になったらしい」ということ。泣けて泣けてたまらなかった、でもその涙が何であったのか、今でも分からない、と手記に書いている。
2012-08-16 01:22:31でも母は、戦争が敗けたとは思わなかった、なにかの理由で中止になっただけだと。敗けはしない。だから、子どもにも出来る戦争協力<残枝とり>に、その日も友達と行こうと思い、となりに行って声をかけた。すると友達はいず、そのお父さんが縁側に座っていて、
2012-08-16 01:24:09「もう残枝は取らなくていいよ。日本は敗けたんだよ」、その言葉で初めて日本が敗けたと知る。そして脳裏におさえこんでいた、ある場面が浮かび上がる。父親と会社の共同風呂に入っていた時のこと。部下の青年が、父親の背中を流しながら、「ねぇ所長さん、日本は負けますねぇ」、
2012-08-16 01:25:52「いや、君、そんなことを言っちゃまずいよ」。母は、世の中には不思議なことを言う人がいるものだと、頭がおかしいのではないかとさえ思った。しかし、その人が言ってたことは正しかった。日本が敗けると言った人の方が正しかった。これは私にとってすごいショックだった。そんなふうに書かれている。
2012-08-16 01:28:19そして、日本の、母の母親の実家、静岡県周智郡森町にたどり着いたのは、1946年11月5日の朝。朝鮮の定州を出て二ヶ月、親子五人は、その間風呂へもはいらず、肌着も替えず、髪ものび放題だった。
2012-08-16 01:39:32@ATS_RNS あんがとです。市井の人の邂逅ってなかなか公な場面で文字にならないんだけど、財産だと思うんですよね。特に出て来てるお母さんの感情の機微みたいなのは、時代が違う者が史実だけ見て想像するのと全然違ったりするんで、大切だと思うんです。
2012-08-16 02:56:44@honeywave3 そうなんですよね。他にも、朝鮮の人たちが「朝鮮独立」「マンセイ!」と叫びながら歩いてくるのを見たこととか、短い中にもいろいろ書かれていて、そういうの読めるありがたみを、改めて噛みしめてます。なので、終戦の日のタイミングで思い切ってツイートしてみたです。
2012-08-16 03:04:29さっそく一点だけちょっと訂正w 母の父親(僕のおじいちゃん)は、敗戦の年に43歳、引き揚げの時は44歳になってたのかな?。ま、今の自分とほとんど同い年という距離感が、新しい発見だったということです。 http://t.co/oGcOqluu
2012-08-16 03:14:13