「日本軍の捕虜虐待」に関する防衛省戦史研究所論文の紹介,他

「旧軍における捕虜の取扱い。太平洋戦争の状況を中心に」防衛省 防衛研究所 戦史部第1戦史研究室立川 京一氏の大論文からの抜粋を 岡山博(@giovannni78)氏が紹介しています。
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ポイントは @giovannni78

①「日本はアメリカに謝罪した?」米軍捕虜生体解剖事件TWに頂いた返信が消えたので宛名なしで返信書きます。ずっと大規模に系統的にやったのが、石井四郎軍医中将が指揮した満州の731部隊 RT @giovannni78 九州大学米軍捕虜生体解剖事件。1945年

2012-08-16 19:59:37
ポイントは @giovannni78

③絶食さえて井戸水だけと蒸留水だけ与えると、蒸留水の人は「味のある水をくれ」といって、井戸水を与えた人よりも早く死んだと記録。赤ん坊ごと殺されるロシア人母親が子どもを守ろうと抱きかかえるのを見て「かばったって、助からないのも分からない」と母親を馬鹿扱いして侮辱した日本人兵士。

2012-08-16 20:03:31
ポイントは @giovannni78

②捕虜や拉致した多数の中国人を人体実験で殺した。1人2人と数えず、丸太といって1本2本と数えた。氷水に入れて冷やすとどのように死んでいくか。細菌爆弾を爆発させるとどれくらい効果かありどの距離が有効か、感染させて死んでいく様子を観察。

2012-08-16 20:07:01
ポイントは @giovannni78

④戦後アメリカは、関係者を免責し731部隊の細菌兵器研究成果を確保した。731舞台生き残りが製薬会社ミドリ十字を作り主に血液製剤を手がけた。血液製剤による薬害エイズや、C型肝炎感染事故と患者への不誠実な対応、2010年にもデータ改ざん事件を繰り返した。合併して現在は田辺三菱製薬。

2012-08-16 20:08:14
ポイントは @giovannni78

日本軍捕虜虐待① 以下は「旧軍における捕虜の取扱い。太平洋戦争の状況を中心に」防衛省 防衛研究所 戦史部第1戦史研究室立川 京一氏の大論文140ペーからの抜粋である。http://t.co/ojSkFoIl今日本社会で起きている問題を考える参考になると考え長いが、以下抜粋紹介する

2012-08-19 20:51:40
ポイントは @giovannni78

捕虜虐待② 国民の税金で運営し、国民の為に存在しているはずの防衛省・国家機関がこのような研究を行い国民に論文を発表するのは、欧米でば当然のことだが日本では一般的とは言えない。この研究をし、発表を邪魔しないで発表させた、関係者と組織に敬意を表します。岡山博。以下は論文からの抜粋

2012-08-19 20:55:41
ポイントは @giovannni78

③1943年俘虜管理部長の浜田平は・・泰国駐屯軍捕虜の犠牲を小さくすることを提案したが、幕僚に「統帥権干犯」と決めつけられて引き下がった・・捕虜は、充分な食事や休息、適切な医療を施されず、過酷な作業に従事させられ、殴打、足蹴といった私的制裁など非人道的な扱いを受け多数が死亡した

2012-08-19 20:57:48
ポイントは @giovannni78

④ 無謀な計画、捕虜収容所・器材の準備不足、輸送・補給体制の不備、命令の絶対性とその遂行への焦り、コミュニケーション手段の欠如、日本軍の捕虜蔑視の観念、国際法軽視の風潮、殴打が日常的という風習などが、こうした悲劇を生んだ

2012-08-19 20:58:47
ポイントは @giovannni78

⑤占領地域では軍の方針として意図的に捕虜が公衆の好奇心にさらされるように計画された・・。軍医が捕逃亡捕虜に青酸カリを注射して殺害した。軍司令官の「適当に処置しろ」という命令によったらしい。数百人の人を動員してやっと捕まえた捕虜を「そのまま連れかえったのでは町の人に申し訳が立たない

2012-08-19 21:01:00
ポイントは @giovannni78

⑥「だから殺した」という。これが当時の空気であった。日本軍は捕虜の請願を一切受け付けないことにした。交戦相手国からの照会や抗議は、赤十字国際委員会を介して、俘虜情報局に伝えられる仕組みであった。米国は746回、照会を行って3分の2は黙殺された。

2012-08-19 21:02:14
ポイントは @giovannni78

⑦<生体実験>トラック諸島海軍病院で、1944年、米国人捕虜4人が手足に止血器を取りつけられて、生体切開されている。2人がショック死し残った2人は、爆風実験として1メートルしで爆発させたダイナマイトで足を引き裂かれ、絶命しなかったため、毒薬を注射されて殺害された。

2012-08-19 21:03:55
ポイントは @giovannni78

⑧内臓標本として内地の軍医学校に送られた。ラバウルでは1944年、捕虜13人にキャッサバの根を中心とした食糧法実験で4人が衰弱死した。捕虜5人が日本人軍医にマラリアに感染している日本兵から採取した血液を注射されて人為的にマラリアを発病、同軍医が製造したという血清を注射されている。

2012-08-19 21:06:43
ポイントは @giovannni78

⑨東京俘虜収容所の捕虜4人が、同意なく、大豆溶液を注射されている。 私的制裁捕虜が最も嫌悪感を抱き、侮辱、虐待と感じたのが、殴打、ビンタ、足蹴、 打擲、乱打、あらゆる拷問、その他、さまざまな体刑による私的制裁である。他人の面前でなされた場合には、いっそう捕虜の屈辱感は増した。

2012-08-19 21:08:30
ポイントは @giovannni78

⑩捕虜に対する私的制裁は日常茶飯事習慣化していた。私的制裁動機は、それが存在するケースでは、躾けや矯正の手段、あるいは懲罰の手段ということであったが、理由もなく、もしくは説明せずに(したがって、捕虜には理由がわからないまま)、体刑を加えるという場合もあったようである。

2012-08-19 21:11:11
ポイントは @giovannni78

⑫躾け・矯正や懲罰が私的制裁のための単なる口実にすぎない状況があった。当時の日本は、躾けに体罰を用いることは、それほど特異ではなく、軍隊においても、悪しき風習ではあったが、頻繁に用いられていた。正座やお辞儀を強要されることは、侮辱と受け取られた。欠礼は私的制裁で贖われた。

2012-08-19 21:13:26
ポイントは @giovannni78

⑫「一般日本人ハ性極メテ短気ニシテ些細ノ事ニモ激昂シ……感情ノ激スル儘ニ私的制裁ニ出ル者少ナカラス」であった。将校が自ら手を下すケースは稀。上官が命じて、捕虜を殴打させることはあったし、部下の捕虜に対する私的制裁を上官が黙認した。上官の命令に逆らえば、部下は自分が殴られる。

2012-08-19 21:15:04
ポイントは @giovannni78

⑬陸軍次官通牒は、「私的制裁ハ之ヲ嚴禁スルコト」と依命している。しかし、これらの効果は薄く、私的制裁の横行状態は続いた。『どんなことがあっても捕虜を殴ってはいけない』と訓示した江本の努力はかなり報われたようであるが、このように成功したケースは珍しい。

2012-08-19 21:16:00
ポイントは @giovannni78

⑭捕虜を不当に取扱った鉄道中隊長が軍法会議に付されたとされるケースがあるが、こうしたことは極めて稀。処罰を受けるということ自体が例外的で、多くの場合、将兵は転属、軍属は解雇などによってお茶を濁すというのが相場ではなかったろうか

2012-08-19 21:17:03
ポイントは @giovannni78

⑮交戦相手国は日本に対して戦争中から抗議を繰り返した。日本側は、努力した部分はあったにせよ、全体として状況を改善することはできなかったし、その意欲も全般的には乏しかった

2012-08-19 21:18:14
ポイントは @giovannni78

⑯航空機の搭乗員は正式な捕虜とは認められず、捕虜以下の取扱いを受けた。拘留期間中は厳しい訊問と激しい拷問を受け、まともな食事も与えられず監禁された。治療を拒否された。多数が処刑され、斬首、刺殺、毒殺のほか、武道の技の効果を試みられるなど実験的な方法が用いられたケースもあった。

2012-08-19 21:20:20
ポイントは @giovannni78

⑰生体実験に供されたり、死後もその遺体が突殺訓練に使用されたりした。 1945年7月軍律会議を開廷して無差別爆撃の事実を認定し斬首によって刑を執行した。その後に捕獲された連合国軍航空機搭乗員27人は、軍律会議を省略して、方面軍法務部長の承認のみで、斬首された。

2012-08-19 21:22:07
ポイントは @giovannni78

⑱大阪では、1945年7月から8月にかけて、航空機搭乗員6人が毒殺、7月5日から8月15日にかけて、39人が射殺された。軍律会議を経ずに、上官の命令により、処刑された。福岡では、45年6月~8月15日に正式な手続きを経ずに、33人の航空機搭乗員が、多くの場合、斬首によって処刑。

2012-08-19 21:24:58
ポイントは @giovannni78

⑲拷問が加えられた捕虜が苦しむ姿を見ていたたまれなくなり、早く殺してあげた方が人道的であると考えての行動でもあった。石垣島では、1945年4月15日、飛行場を空襲した米軍機が撃墜され、搭乗員3人がパラシュート降下したところを捕獲された。訊問終了後、2人は斬首、1人は銃剣による刺殺

2012-08-19 21:26:07
ポイントは @giovannni78

⑲東京45年8月、連行を見物た住民は「殴れ」「殺せ」と叫んでいた。翌9日、目隠、手錠、裸足のまま学校の柱に縛りつけられ、住民が代わる代わる暴行を加えた。捕獲搭乗員は精神錯乱に陥った。墓地に連れて行かれて斬首された。

2012-08-19 21:27:40
ポイントは @giovannni78

⑲中国漢口では、1944年12月、捕獲された連合国軍航空機搭乗員3人が市中を引き回され、殴打と拷問を受けたあと、ガソリンをかけられて生きたまま焼殺された。ニューギニアでは、1944年3月23日、撃墜され、パラシュート降下した米人航空機搭乗員が、緊縛、殴打ののち、斬首

2012-08-19 21:29:21