マキシミリアノ・コルベという神父さんがいた。戦前のポーランドの人で、敬虔な両親のもとにうまれ聖職者を志したが天才的な数学の才能も持っていたらしい。
2012-08-23 14:17:10「聖母の騎士」という出版布教活動をやって、かなり有名な人だったらしい。日本にも来たことがある。若くして数学と神学の博士号も取った。優秀な人だったのだろう。
2012-08-23 14:20:26で、このコルベ神父はその活動内容と出自でゲシュタポに睨まれ、逮捕されてアウシュヴィッツの絶滅収容所に放り込まれた。ある日、脱走者が出た為無作為に10人が抽出され、餓死刑に処されることとなった。
2012-08-23 14:26:06餓死刑というのはその名の通り水も食事も与えず地下の締め切った部屋に放り込んで飢え死にさせる残忍な刑で、大抵の人は錯乱し見るも無惨な死を遂げるという。
2012-08-23 14:26:15餓死刑の処されることになったうちの一人に、元ポーランド軍の下士官がいた。彼は連行される直前になって、「俺には女房も子供もいるんだ」と泣き叫んだ。彼を無理矢理連行しようとする看守の前に、コルベ神父が立ち塞がった。
2012-08-23 14:28:53「何だお前は」「私はカトリックの司祭です」「その司祭が一体何だ」「私はその人の身代わりになりたいのです。私は司祭で家族もいませんから」「…!」
2012-08-23 14:29:18結局コルベ神父の志願は認められ、餓死刑に処される事になった。神父は共に刑に処された仲間たちを慰め、激励し続けた。先に書いたが餓死刑を受ける者たちは大抵錯乱するのだが、神父の導きのもと受刑者たちは賛美歌を歌い、取り乱すことなく従容と死を迎えていった。
2012-08-23 14:32:08当時収容所の囚人でありながら通訳の手伝いのようなことをさせられていた人物で、戦後まで生き延びた人がいるのだが、彼によると「餓死刑室はまるで聖堂のようだった」という。コルベ神父は二週間を生き延び、結局薬殺された。死の時すら神父は微笑していたそうだ。
2012-08-23 14:34:35コルベ神父は死から41年後の1982年に、同じくポーランド出身の教皇ヨハネス・パウルス2世によって列聖され、聖コルベとなった。列聖されるには奇跡認定が必要なのだが、どういう奇跡があったのかは知らない。
2012-08-23 14:38:02ただ、聖母マリアを崇敬し聖母の為に殉教することを望んでいたコルベ神父が処刑され遺体を焼かれたのは、奇しくも聖母被昇天の日だったという。
2012-08-23 14:38:14なんでこの人の事を書いたのかというと、昔からこの人のことは覚えていたからだ。確か1983年か4年、福岡でヴァチカンの美術品や遺物の展覧会があった。教皇の宝冠や玉座などの煌びやかな展示品が並ぶ中、妙に印象に残っていたのは囚人服を着せられたコルベ神父の姿を描いた絵だった。
2012-08-23 14:41:13わざわざコルベ神父のコーナーがあったのは、多分彼が列聖されてすぐだったからなのだろう。かくして「アウシュヴィッツの聖人」コルベ神父の名は私の記憶に刻まれた。
2012-08-23 14:45:33ちなみにカトリックの聖人は様々な職域担当を設定されているのだが、聖コルベはジャーナリスト、政治犯、アマチュア無線、薬物中毒者、家族、そしてプロライフ運動の守護聖人だそうだ。
2012-08-23 14:45:50