【三国志】 領尚書事や録尚書事について
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録尚書事についてとかほかそれに絡んだいろいろなど。先ずはこの図をBan! あ、毎度ながらエラーするかもなのでURLコピペしてリロードしてね。 http://t.co/Ywkj30Kz
2012-08-25 20:44:07【録尚書事について】 録尚書事は大官につくオプション。「尚書事を録す」の文章が名詞化したのだろう。尚書事とは尚書台の事務で皇帝への上奏を検閲・取捨選択して皇帝へ届ける役割がある。録尚書事を持つと、本来なら尚書台での検閲・取捨選択される自分からの上奏を
2012-08-25 20:45:02そうした検閲・取捨選択を受けずに皇帝へ届けることが出来るので、自分の党派の意見を皇帝に具申しやすくなる。また権勢のある人物なら(拡大解釈を踏まえて)尚書台へ介入して尚書台での検閲・取捨選択を自分のところで行うようにできる。
2012-08-25 20:45:20但し、単に尚書事を録すだけだと制限がかかる。普通は皇帝の住い、内宮へは入る事が出来ないため上奏文を皇帝に届けるのは皇帝の臨朝時のみとなるのだ。仕事熱心な皇帝ならいいが、でない場合は届ける術が無い。皇帝が内宮へ引っ込んでしまえば宦官を介して自分が選んだ上奏文を届けて貰う形になる。
2012-08-25 20:46:42ということで、内宮に引っ込んだ皇帝へ上奏文を届ける術を持つ外戚などでないと録尚書事の権能は十分活かすことができないということになる。或いは太傅・録尚書事の袁隗などのように自分の氏族か息のかかったもので宦官となっているものが居て、内宮へのルートを自分でもっているものでないと。
2012-08-25 20:46:59【複数の録尚書事保持者によるパワーバランシング】 外戚が権勢を誇って録尚書事まで保持すると、朝廷内の権力バランスが急速に崩れることになる。これを是正するために帝国の歴史ではしばしば同時に他の複数の大官に録尚書事を加えて複数の録尚書事保持者を作り、
2012-08-25 20:47:37権勢の頂点にあるものへの牽制役に仕立ててパワーバランシングを図るということが見られる。 こうなると、その複数の録尚書事保持者同士による談合が行われ、最権勢者が優勢ではあるもののやり過ぎない程度に抑えられるようなある種の寡頭体制的な政治の均衡が図られることになる。
2012-08-25 20:47:58【荀イクが侍中と尚書令を兼任していた意味】 建安年間半ばまでの後漢における曹操政権の場合、荀イクに侍中と尚書令を兼ねさせ対処した。これで尚書台にあがる上奏文を自派で全て検閲取捨選択し、そのまま皇帝の住いへ出かけて上奏文を直接届けることが出来るようにした。
2012-08-25 20:48:14献帝を奉戴したばかりの頃の曹操政権ではこれが他派の容喙を自派に許さず権益を確保出来る最大の方策であった。 権力基盤が盤石でない間は、図に示すようなバックドアから曹操に不利な上奏が届けられて裁可されるようなことが起きたりしており
2012-08-25 20:48:37(曹操自身が袁家兄弟に破れて撤退したり、夏侯惇が劉備に破れて撤退したりしたあたりでこれからは敗戦時には然るべき処分を下すよ!という布令を出さざるを得ななってる)最終的には外戚となって後宮を押さえた上、なお誅戮されるのを防ごうと自分の拠点をギョウに定めることまでしている。
2012-08-25 20:50:51@nisekuro_at 前漢の領尚書事について、「本来は出来ない上奏文の検閲・選択を出来る」ことが大きな権能だという研究がありますね。ただ私は後漢尚書台が独自に検閲・選択できたというのがどの辺に基づく説なのかはわからないです。
2012-08-25 20:50:56どうやら最後までバックドアは潰せなかったようだ。 バックドアを作ろうとした工作事例として疑われるものを二つ。孫策による張絋の派遣と、劉表による王粲の派遣。 それから劉備がバックドアを持っていた可能性について。
2012-08-25 20:51:55どうも劉備はこの上表のバックドアルートを持っていたらしい。劉備による劉琦の荊州牧擁立、劉備と孫権、劉備と劉璋との間で互いに官位を高めるような上表を行って官位を高めたことなど。孫権も劉璋も自分からはそうした行動を取っていず、いずれも劉備が絡んでそうしてることから鑑みるに、
2012-08-25 20:53:41許都にいた僅かな期間で彼は曹操政権のファイアウォールをくぐり抜けてその管制外から上表をできるようなバックドアを築きあげた臭い。 幾重にも防諜体制を張り巡らせ、劉備のバックドアを潰そうと試みる荀イクと、まんまとかいくぐって上表を成し遂げる劉備側との諜報戦とか燃える。
2012-08-25 20:55:33【ところで姜維は独自の上表ルートを持ってたよねってことなどについて】 三国志蜀書姜維伝には景耀六年に姜維は「鍾会が関中で兵を治めて蜀獲りを図っているため、張翼、廖化を並んで遣わして諸軍を督させて陽安関口と陰平橋を護らせるよう」にと後主に上表する。
2012-08-25 20:56:03これは宦官黄皓により後主が採るところとならず寝かされてしまうが、羣臣はそれを知らなかったとある。これをそのまま信じるなら姜維は黄皓の目さえすり抜けて後主に達する上奏ルートを持っていたと見てとれる。この状況から既に後主が姜維の上表を見ており、それを黄皓に相談し、
2012-08-25 20:58:26それを受けて黄皓が自分の信じる鬼巫を徴し、敵は終には到らないとの巫言を得て後主にこの上表を寝かせるよう啓発しているのだから。このルートは皇后経由かも知れない。この頃にはもう亡くなっているのだが、同じ涼州出身で共に蜀に降った同僚で大長秋の梁虔が遺してくれたものと考えると泣ける。
2012-08-25 20:59:42@nisekuro_at むしろ、皇帝への密奏をも検閲できるのはいたとしても録尚書事だけで、黄晧含め他にはその権限が無いとすれば
2012-08-25 21:05:49@Jiraygyo なんとなく分かって疑ってはいたんでしょうが、最後まで尻尾を掴めなかった臭いですね。最後はもうやっつけで、官渡の頃の手紙を持ちだして「処理」したものの・・・って見ると伏皇后を処理した際の理由と証拠の今更感が理解できるかも。
2012-08-25 21:16:56@Golden_hamster そもそも検閲とかがあったとして、どれくらいの検閲力があったかとかも。当初は皇帝や朝廷への余りに不遜な言辞や不適切な表現のある上表を弾くためだったんでしょうが、時の経過とともに色々変遷があって前漢時のように強力な権能を持つようになったのかもですね。
2012-08-25 21:29:29@nisekuro_at そのまま寝かせたら周囲の大臣も存在を知らなかったということは、姜維の上奏は上封事かもしれないですね。元は領尚書事の検閲に対抗する密奏。尚書台の事前検閲も、宦官が事前に差し止めることも(制度上は)できなかったはず。
2012-08-25 21:33:38@Golden_hamster そのあたりが蜀漢の「録尚書事」と「平尚書事」の違いですかね?黄晧は尚書台からの上表を内宮にいる後主へ取り次がないって選択肢しかないと。樊建は侍中兼尚書令だから後主に直で会えるし別に黄晧なんて怖くないってことで、あの蜀書の記述になってるとか。
2012-08-25 21:40:46@Jominian @HAMLABI3594 そういうのって前代からひっぱてくるだろうし、まして同じ王朝なんだから前漢の平尚書事の分析から始めていくべきだな(適当
2012-08-29 22:26:00