nag_nayさんのツイ天論感想など

あとでよむためにまとめた(仕事中なので)
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Nag.△ @Nag_Nay

朝ですが、まだTLが混んでないので、大量に投げさせていただく事とします。予め、お詫び申し上げます。(不必要な方は、ここ20分程、ミュートをお願いします。)

2012-09-06 06:54:08
Nag.△ @Nag_Nay

私事に一区切りついたので、先日復刊した、てらまっと氏@teramat「ツインテールの天使」と「喪失と希望の対位法」の感想と、そこからの連想をメモ。ただその前に『アニメルカvol.1』泉信之「あなたが観察者の椅子に座るということ」でのアニメを視聴する経験の分析を確認したうえで。

2012-09-06 06:54:31
Nag.△ @Nag_Nay

1、そこでは、①映像は実像ではない、②映像そのものに意識があるの2テーゼが提示される。①は、視聴者として客観的に映像を「見る」経験 “ではない経験”が提案される。これは、視聴者が世界の内部(の限界)にある「観察者」の目線に立ち、映像の向こう側が直に世界として「見える」経験を指す。

2012-09-06 06:55:02
Nag.△ @Nag_Nay

2、これは、客観を見る事でもないし、物語の語り部に自己を投影する事でもない。むしろ、世界のあり方と観察者のあり方とが一致した、「かくあるように世界がある」と、ダイレクトに視る目線を持つ事だろう。※ここで大森荘蔵的な「世界が悲しい」という文法を想定しても、あながち的外れでない様な。

2012-09-06 06:55:26
Nag.△ @Nag_Nay

3、そして②この観察者は無色透明な存在ではなく、意識、感覚、人格を体現する。とはいえ「観察者の椅子」とは、文化的制約を持つ具体的な存在者に成り代わる事ではなく、遍在しつつ僥倖としてただ「ここ」に在る事…即ち、ある感覚を有しているだろう観察者の感性や精神への同化の経験…を意味する。

2012-09-06 06:56:23
Nag.△ @Nag_Nay

4、そして「「活きた」アニメの映像というのは、まず、「実際よりも〜に見える」というレベルまで観客を没入させたときに、いかなる意識を与えうるかによって死活が分かれる」(泉信之)。ここから、「意識感覚の変化・変調」を享受する経験として、アニメの評価をしうるものと読める。

2012-09-06 06:57:05
Nag.△ @Nag_Nay

1、さて、以上の確認の上で、てらまっと氏「ツインテールの天使」である。この5-10節では、観察者フィルターたる「あずにゃんカメラ」を利用して、視聴者に「避けられない終わりへと送り返される」「宗教的な経験」(天使に触れる経験)を与える作品として『けいおん!!』を読解している。

2012-09-06 06:57:46
Nag.△ @Nag_Nay

2、「あずにゃんカメラ」自体は、カメラを梓に固定する事で唯たち4人を「見送る視点」「追いかける視点」を視聴者に作り出すための演出装置、キャラクターとの同一化現象を支える表現技法を超えるものではない。それでは、泉氏のいう「語り部の視点」であり、①観察者目線に立てていないことになる。

2012-09-06 06:58:17
Nag.△ @Nag_Nay

3、そうではなく。「あずにゃんカメラ」と、あずにゃんの無時間的な「あんまりうまくないですね」の呟き(これは、かつて唯が ”あずにゃんの知らないはずの時間(1期)”においてつぶやいた台詞)、をセットで捉えることで、けいおん!!の①観察者目線は、神学的な目線に昇華するというのである。

2012-09-06 06:58:41
Nag.△ @Nag_Nay

4、”知らないはずの事を知っている”幽霊的な存在者、神学的な天使の具現化としてあずにゃんは存在する。それは、あずにゃんが時間を飛び越え、第一期から唯たちを見守ってきた別の時間軸に視聴者を導く。つまり、あずにゃんという超越者を理解する事ではなく、人でも物でもない形で経験する。

2012-09-06 06:59:04
Nag.△ @Nag_Nay

第二:読解経験の重要性

2012-09-06 06:59:43
Nag.△ @Nag_Nay

1、ではこの読解経験の重要性とは何か。それは、視聴者に普遍的な存在者の視点を導入し、同時に我々のいまここにある有限性の前で立ち往生させることにある。デリダが「触れる」ことの不可能性と希求の双方について語っていたように。ニュートラルな没入・消費/擬人化の様な「理解」ではない形で。

2012-09-06 06:59:53
Nag.△ @Nag_Nay

2、あずにゃんは「祈り」の経験をもたらす事で、避けられない終わりを視聴者に否応無く自覚させる。この「祈り」は、普遍者あずにゃんを介し、視聴者を同一化することなく、差異を保ったままで偶かに引き合わせる。それ故に、視聴者の身に有限性を引き受けさせる倫理の経験を可能とするのである。

2012-09-06 07:00:14
Nag.△ @Nag_Nay

3、我々を、①確率的に生じてしまう「終わり」の前に立たせると同時に、②普遍者として「どこだってここ」だといえるような「ここ」を指し示し、かつ、③今「ここ」にある奇跡を顕現させることを通じて、<天使の救済に対する宗教的かつ倫理的な態度を作り上げる点>が重要となりそうである。

2012-09-06 07:00:31
Nag.△ @Nag_Nay

1、問:「祈り」は再度「終わり」の神秘化をもたらさないか。かつて、東浩紀は否定神学と経験論がくるりと反転して融合する事態を指して、脱構築不可能なものを再度神秘化(沈黙)してはならないことを強調していた。「祈り」の語り得ない経験を、制度と実践の中にいかに組み込むかが問題ではないか。

2012-09-06 07:01:23
Nag.△ @Nag_Nay

2、この点は、籠原スナヲ氏@suna_kagoの幾原邦彦論「「95年」と桃果の倫理」を読んでも類似の疑問を憶えた。桃果の倫理は「かけがえのなさ」と「かわりがきく」ことのジレンマを折衷させる呪文で解消するが、視聴者はこの乗り越えを同作品の「終わり」に際し、いかに実現する事になるのか

2012-09-06 07:01:52
Nag.△ @Nag_Nay

3、反転して融合するのは、否定神学と経験論のみならず、脱構築とアイデンティティポリティクスもそうであった。「かけがえのなさ」と「かわりがきく」ことは、私的な救済を我々にあたえ、かつ、再度我々をアイデンティティポリティクス化しないだろうか。

2012-09-06 07:02:07
Nag.△ @Nag_Nay

4、祈りの実装、というと安直なようだが、「祈り」の成立根拠とともに、「祈り」が持続し、生活の中に埋め込まれる仕組みの解明が、とても気になってしまっているところ。(曖昧…)

2012-09-06 07:02:48
Nag.△ @Nag_Nay

第四 補足:とらドラ!との接続

2012-09-06 07:03:16
Nag.△ @Nag_Nay

1、どらドラ!の倫理について、補足的に。展開したいのは、「祈り」(特に大河の祈り)には、個人の倫理の社会化(道徳化)を招く危険も内在していた。よって、超越的な「祈り」を生活に埋め込む事、「もう一度」による倫理の更新、超越の後でプラグマティックに人と人が「並び立つ」倫理が問題となる

2012-09-06 07:04:31
Nag.△ @Nag_Nay

2、まず、形式的には、冒頭及び末尾の二人のモノローグ、というより、ポリローグが注目される。モノローグ(独我論、欲望)でもダイアローグ(権力、コミュニケーション、約束…)でもなく、ポリローグ、というのがポイントに思える。

2012-09-06 07:09:49
Nag.△ @Nag_Nay

3、大河、竜児による個々の語りは揺れ動くポリローグに他ならない。「揺れ動くポリローグは一つ一つのエクリチュールの原子を分割する。不可能な真理が現れてくるのだが、それを一瞬ごとに、更なる繰り返しにも拘らず、ただの一度で決定しておかなければならないだろう」(デリダ『火ここになき灰』)

2012-09-06 07:11:37