橘川幸夫氏の古い原稿「サイボーグのこころ ●クラウス・シュルツェの2枚組アルバム●(1974年) 」
これは1974年のロッキングオンの原稿。橘川24才。「サイボーグのこころ ●クラウス・シュルツェの2枚組アルバム●
2012-09-11 22:57:06サイボーグ、とは何か。それは人間のような機械ではなく、機械に似た人間でもない。サイボーグ、このエロティシズムに満ちた冷たいかたまり。意識しはじめた欲望。
2012-09-11 22:57:17日本のSFマンガに表われるサイボーグは、それは多分SF小説から来ているのだろうが、例えば8マンにしろサイボーグ009にしろ、人間と機械のマイナスの側面をかけ合せたサイボーグ像に固執してきた。
2012-09-11 22:57:29それは、つまり、人間の弱さと機械の強さ、という事であり、サイボーグはその相克に悩む、という<人間の弱さ>の側からの甘ったれた、身勝手な幻想である。
2012-09-11 22:57:37個我の歴史において<強きもの>とは外界の自然存在であったり内界の私あるいは類的な私であったりした訳だが、サイボーグにはそのような近代の私という範囲の中での相対論からは最初から抜け出てしまっている。
2012-09-11 22:58:26クラウス・シュルツェの2枚組アルバム<CYBOG>の世界は最早、音楽であるなどど言ってもはじまらないのかも知れない。音ではなくて渦だ。未だ音にも光にもなり得てない、まして言葉の届く距離ではない。
2012-09-11 22:58:49人間が生を受けた瞬間は末だ判断力も経験もないから、物を物として愛け止める事が出来ず、タンスもベッドも母親も水も、何もかもただ光の渦として赤ん坊に映る、という話を聞いた事がある。
2012-09-11 22:59:01赤ん坊は盲目ではないが何も見えない。しかし、何も見えないという態度によって、とてつもない、むきだしの恐怖にも似た何かを見る事になるのだ。
2012-09-11 22:59:10人間と機械とはどう違うか、といえば、それは、時間の内側にいるか外側にいるかの違いだろう。人間とは元々機械=物質であるにもかかわらず、時間の内側に組み込まれてしまった、矛盾した存在である。時間を自覚してしまった体験、それは宿命ではなく運命である。
2012-09-11 22:59:25しかし、今、突然に時間を与えられたサイボーグは、何も判断できないし何も経験してはいない。だから見える世界は全て渦だ。
2012-09-11 22:59:35男というのは、いくら年季を積んでも努力しても、多分結局は童の頃のオナニーと同じ以上の快楽は知らない訳で、相手を変えようが場所を変えようが、上になったり下になったりねじったりひっくり返ったりしても、要するに射精の一瞬においては同じ質だ。
2012-09-11 22:59:51しかし女というのは、あれよあれよと成熟していく訳で、ひがむよなあ。成長していく快楽。男には何よりもこれが欠けているのであって、欠けているから、一生懸命に働いたり、えばったりするのだし、そうする事が出来るのです。
2012-09-11 23:00:05なぜ男の快楽は横すべりに変化するだけで成長しないのだろうか。やはり、本質的に自分自身に対して怠けているからだろうか。
2012-09-11 23:00:14シュルツェの音がなぞっている世界。それは女の快楽が突き進んで発見した世界。つまり、イキっ放しの世界。体中のエネルギーを放出しつくして、すっからかんになり、欲望の溶鉱炉も冷めて、ようやくその姿をあわらにしてくる。
2012-09-11 23:00:25性器末。透明な太陽。サイボーグのエネルギーは無限の空虚。感情の裏側、眠りの内側、つややかな情念の表面を、僕は僕の全身を僕の掌としてなぞる。
2012-09-11 23:00:52内部の力は最早、内部に向かってでしか働かない。サイボーグ。深海潜水艇。たゆたひ。沈黙に接近するための言葉。このアルバムは全く新しい意味での情念論であり存在論だ。
2012-09-11 23:01:03東中野という駅は中央線沿線の新興有名駅と違って、どこかひなびた感じがして、高架でもないし、地理的にもとり残されたような駅です。
2012-09-11 23:01:58僕が新宿へ行くために各駅停車の総武線を待っていると、新宿の方から、やってくるやってくる、快速線の鋭い疾走を前にして、線路のきしみが一早く先行してやってくる。キィーン、クィーンン、気持イィーィン。気が付くと、いつの間にやらこの音のファンになっていた。
2012-09-11 23:02:08新宿のゴールデン街でセーラー服大会だとかいって、飲み助友達と一緒にセーラー服を着て騒いでいたら、最終電車はとうに終っていて、金もないので仕方なく歩き始めた。
2012-09-11 23:02:19ポツポツ歩いていると酔が体中に響いて気持ち良い。急に走りたくなって、えいやーとばかり大久保通りを走ってみると、ものの3分ともしないうちに、心臓は高まり息苦しくなり、ぶったおれてしまった。
2012-09-11 23:02:28路上のコンクリートが頬に冷たく、そして、耳の奥では、ドッキンドッキン(こんな擬態語でしか表わせないが、本当は、もっとふくらみのあるまろやかな響きなのです)と、いつかどこかで確かに聞き続けていたリズムと音が鳴っていた。
2012-09-11 23:02:37シュルツェの音は、最初は、例えば深夜の何にもやってないテレビの画像のように無意味に聞こえてくるかも知れない。しかし日常生活の、あの、意味あり気な無意味に比べれば、少しも疲れる事はない。
2012-09-11 23:02:48何度も聞いていると、それらの音は、みんなどこかで聞いた事がある。何者かのために遮断されてはいるが、いつでも、どこでも、鳴り響いている音だ。日常とは、そうだ、日常こそが豊饒の海であるはずなのだ。
2012-09-11 23:02:58いやあ、長い原稿だな。ロッキングオンでもらった頁は2か3ぐらいだったので、こんな文章がぎっちり。70年代の半ば。何かを突破しようとしていた時期だ。
2012-09-11 23:04:18