批評について考えるためのまとめ

岡崎乾二郎さんの批評についてのツイート、TL上で流れてしまうのはもったいないので、まとめました。個人的な参考のために。
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おかざき乾じろ @kenjirookazaki

いっさい受け入れられなくても批評家は批評家だ、批評とは、外在的にではなく、その論を自ら支えることにおいてこそ批評として機能する。つまりはそのことによって批評対象に対して、外部に位置できる、これは自明だ

2010-07-09 04:59:51
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

こういう原理を把握してしまったとき(それを発言するかどうかの選択はリスキーなことでもある)、だがリスキーである(受け入れられず、世界と対立するかもしれない)にも関わらず、その原理は発言を要請する。ということがある

2010-07-09 05:01:39
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

正しさは、論理的なものとして導きだされるのであって、人(他人や自分)の都合で導きだされるものではない。社会の都合で導きだされるものではない。 その理論枠(パラダイム)において、正しいものは正しいと決まってしまうのであって、その結末が当人にとって不利であろうとそんなことはおかまい

2010-07-09 05:04:03
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

もない。忘れられるとか忘れられないとか、いう人間的な次元とも関係ない。

2010-07-09 05:04:35
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

正しいというのは ひたすらロジックの問題である。(たとえ自分にとって不都合であれ、批評的な真実というものがある)

2010-07-09 05:05:32
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

親にも恋人にも学生にも先生にも、理解されない、というより、されるかされないかなどという次元とは関係なく、自ら論を支える必要がなければ論文などは書けないからです

2010-07-09 05:08:46
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

読者はいなくてもいい。批評は原理的に一種のアルゴリズムの構築であり(比喩的にいえばねずみ取りみたいなもので)、その批評の回路にはいれば、誰であれ、その結論を了解せざるをえないだろうという、ところで書かれるものだと僕は思います。

2010-07-09 05:10:52
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

無視するしか抵抗できないほど、強力な批評というものが世の中にはある。(誰もが知っているが、迂回するしかないという説得力のある批評が)

2010-07-09 05:12:00
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

しかし、いくら迂回、敬遠、無視されても(書かれたものが残る限り)、いつかそれを誰かが読めば、これが回路として成立(一定の説得力、合理性を確保されている限り)していれば、この回路は作動してしまうはずです。自明ですが、このようにギリシャ哲学も再発見されたわけです。

2010-07-09 05:14:39
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

当たり前の話。コミュニティなどいうものは、盲点、盲目性(の共有)によって形成されるものですから、昔から批評家はそこに拘泥しません。政治家は別ですが。

2010-07-09 05:16:15
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

ちょっと時差レスになりますが(黒瀬くんはご存知のように)、一方で僕は情を否定はしません、しかし情にこびることと、情があるゆえに情をいったん断ち切った判断をするというのは別の事柄です。でなければ一緒に溺れてしまうだけでしょう。(宿命的欠如と思われている)欠陥であれ克服できる

2010-07-09 05:28:01
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

@kaichoo 大枠賛成ですが、僕なりに言い直すと、責任は自分の論を支持する理論枠(建築でいえば構造)こそが強いるものであり、批評はその自らを建てている公理系を徹底(忠実になる)し―破綻する点を自ら確認するところまで徹底することにおいてしか、自己批判も含めて責任はとれない。

2010-07-09 05:39:08
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

@qualquelle  無敵とは言い換えれば敵、味方の区分さえ消滅させてしまうということですね。いいかえれば批評は敵による自己正当化はできない。共通の敵(という共同体的前提などさえ、ぶっこわす)などというものがない。つまりは、敵によって自己正当化しようとする弱さこそをぶっ壊す

2010-07-21 04:54:41
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

@qualquelle  芸術批評をまともに行えば、「芸術」という語を自明の自同律「芸術は芸術である」として使うことはできない。たとえば美大の講評会で学生が「これは芸術です」といっても誰も取り合わないし、先生が学生に向かって「芸術だ」といっても相手にされない。学会でも同じ。

2010-07-21 05:24:03
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

@qualquelle 程度の低い美大ですらそう。権威主義はそこでは成立しない。(権威ではなく政治=権力が存在することはあっても)。権威が行使されるのは外部に向けての言説。たとえば観光や土木業務に対しての言説。批評家が権威主義的になるのは批評家ではなく彼が啓蒙家として振るまうとき

2010-07-21 05:28:46
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

@qualquelle これがたとえば、批評それ自身の弱さです。批評それ自身の弱さが出現するのは、批評が歴史的言説を騙るとき(既成事実のように騙るとき)。それをまず、イジメるのは確かに批評の出発点です。

2010-07-21 05:31:33
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

葦は考えても、どこにも行くことはできない。むしろ考えることは自らの存在の根を疑い(それは根から決して離脱も逃げることができない自覚に繋がり)、自らの生を腐敗させる力にすらなる。一方、権力は葦を引っこ抜くことはできても、自ら腐敗=発酵する、その葦の考えそのものを止めることはできない

2010-07-22 02:47:30
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

一方Culture (文化)はcolere ,さらにcolonus を語源とし、(必然的に)colonialism(植民地主義)とも繋がる。いわば権威主義としての文化は葦を植えるという名目で他の土地へ侵入する。

2010-07-22 02:53:44
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

だが Culture→colonialismにできることは(せいぜい、成長をおっかなびっくり脇から補助するくらいで)、収奪であって、葦 そのものの生機能(思考)を模倣することも、またそれを記述することすらできない。

2010-07-22 02:58:07
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

一方〈考える葦〉は、自らの生をみずから殺す力をもっている(繁茂しすぎた、セイカタアワダチソウが自らアレロパシーを出し、絶滅するように)。つまり批評の権威とは自己批判(自己殺傷力)であるアレロパシーのようなもの。

2010-07-22 03:03:25
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

(訂正→ セイタカアワダチソウ 背高泡立草)。それにしてもセイタカアワダチソウ はどこにいった?10年前まであちこちの空き地繁茂し、外来種(北アメリカ産)として嫌われたが自ら、唐突に姿を消した。そもそも明治時代には、観賞用として輸入され珍重されていた。

2010-07-22 03:09:28