イザヤ・ベンダサンbotまとめ/「踏絵の日本」と「焚香のアメリカ」/~”無意識の前提(日本教)”を意識しないが故に「言葉の踏絵」の世界から抜け出せない日本人~

イザヤ・ベンダサン著『日本教について』より抜粋引用。
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イザヤ・ベンダサンbot @Isaiah_BenDasan

①「踏絵」というものを御存知ですか。これは三百年ほど前、時の政府がキリスト教を禁止したとき、ある者が、キリスト教徒であるか否かを弁別する為に用いた方法です。すなわち聖母子像を土の上に置き、容疑者に踏ませるのです。<『日本教について』

2012-09-28 22:58:50
イザヤ・ベンダサンbot @Isaiah_BenDasan

②踏めばその者はキリスト教徒でないと見なされて赦され、踏むことを拒否すれば、その人はキリスト教徒と見なされて拷問され、処刑されました。ところで、もし仮に、私か貴方のようなユダヤ教徒がその場に居合わせたら、どういう事になったでしょう。御想像ください。

2012-09-28 23:58:52
イザヤ・ベンダサンbot @Isaiah_BenDasan

③容貌からいっても、服装からいっても、言葉・態度・物腰からいっても、私たちは当然、容疑者です。勿論私たちは、懸命に、キリスト教徒でない事を証言するでしょうが、おそらく誰もそれを信用してはくれず、踏絵を踏めと命じられるでしょう。どうします?言うまでもありません。我々は踏みます。

2012-09-29 00:58:33
イザヤ・ベンダサンbot @Isaiah_BenDasan

④我々ユダヤ教徒が偶像礼拝を拒否して殺されるなら兎も角、偶像を土足にかける事を拒否して殺されたなら世にこれ程無意味な事はありますまい。これは我々にとって議論の余地のない事です。だが次の瞬間、一体どういう事が起るかおわかりですか?

2012-09-29 01:58:36
イザヤ・ベンダサンbot @Isaiah_BenDasan

⑤日本人はこういう場合、一方的に我々を日本教徒の中に組み入れてしまうのです。おそらく奉行からは、異国人の鑑として、金一封と賞状が下されるかもしれません。同時に、もしそこに踏絵を踏む事を拒否して処刑を待っている日本人キリスト教徒がいたら、その人びとは私達を、裏切者か背教者を(続

2012-09-29 02:58:32
イザヤ・ベンダサンbot @Isaiah_BenDasan

⑥続>見るような、蔑みの目で眺めるでしょう。その際、私達が踏絵を踏んだのは、日本人が踏絵を踏んだのとは全く違う事なのだ、と幾ら抗弁しても、誰も耳を傾けてくれないでしょう。『日本人とユダヤ人』を出版した後、私は、踏絵を踏んで御奉行にほめられたような、妙な気を再三味わいました。

2012-09-29 03:58:34
イザヤ・ベンダサンbot @Isaiah_BenDasan

⑦「踏絵」と口をきく事はできません。踏絵を差し出すという行為には言葉が入る余地がありません。理由は一切問われませんし釈明は全く許されません。踏んだか踏まなかったかだけです。そしてそれが時には褒賞となり時には処罰となります。そして理由は一切問われませんし、釈明は全く許されません。

2012-09-29 04:58:33
イザヤ・ベンダサンbot @Isaiah_BenDasan

⑧以上のように申しますと、日本人も質問するではないか、釈明もするではないか、と反諭されるかも知れませんが、日本人の質問とは、自分にわからない事を、相手にきいているのではないのです。「言葉の踏絵」を差し出しているのです。

2012-09-29 05:58:35
イザヤ・ベンダサンbot @Isaiah_BenDasan

⑨これは国会の討論であれ、新聞記者のインタビューであれ同じであって、質問者は、さまざまの「言葉の踏絵」を次から次へと差し出して、相手が踏むか踏まないかをテストしているのです。そして踏めば、なぜ踏んだかを問うことなく、相手を規定してしまいます。

2012-09-29 06:58:34
イザヤ・ベンダサンbot @Isaiah_BenDasan

⑩従って日本人と会見するときは、はっきりこのことを覚悟しなければいけません。ではここで、日本人がなぜそうなるかを検討してみたいと思います。ローマ政府がキリスト教徒迫害のとき用いた方法は焚香(たきこう)でした。これは、踏絵とは正反対の発想です。

2012-09-29 07:58:35
イザヤ・ベンダサンbot @Isaiah_BenDasan

⑪すなわちその人がどんな宗教を信じているかは問わない、ただ皇帝の像の前で香を焚けば良いわけです。申すまでもなくローマは「所かわれば品かわる」を「所かわれば宗教かわる」と言った国です、でまたそれを当然としていましたから、踏絵は不可能です。

2012-09-29 08:58:49
イザヤ・ベンダサンbot @Isaiah_BenDasan

⑫これは、ある点では、現在のアメリカに似ております。すなわち、キリスト教徒であれ、ユダヤ教徒であれ、仏教徒であれ、星条旗への忠誠を宣誓すればよいのであって、それをすれば、その人が何教徒であろうと問いません。これは一種の「言葉の焚香」と解することができます。

2012-09-29 09:58:50
イザヤ・ベンダサンbot @Isaiah_BenDasan

⑬こうみて来ますと、「言葉の踏絵」が「言葉の焚香」とどのように違うかが、もう、おわかりかと思います。この踏絵という方式は、一宗教団体が異端者を排除するために用いる方法であって、そこには、正統と異端しかいないということが前提です。

2012-09-29 10:58:48
イザヤ・ベンダサンbot @Isaiah_BenDasan

⑭従ってこの前提にあてはまらないものが現われた場合(前記のようにユダヤ教徒に踏絵を差し出した場合)日本人は、前提にあてはまらぬ者が現われたとは考えないで、その者を、どちらかに類別せざるをえなくなってしまうのです。

2012-09-29 11:58:51
イザヤ・ベンダサンbot @Isaiah_BenDasan

⑮日本人は日本教徒ですから、日本教徒としての前提でことを判断するわけてすが、日本人は、この前提を意識しておりません。「無前提の前提」とか「あらゆる前提を排して虚心対象に向う」とか言うことを、日本人はよく目にします。これらの言葉と禅とはもちろん関連があります。

2012-09-29 12:58:48
イザヤ・ベンダサンbot @Isaiah_BenDasan

⑯が、その問題はしばらく措き、一応これを「無意識の前提」としておきます。笠信太郎という人が日本人を「やってしまってから考える」民族だと規定しております。

2012-09-29 13:58:51
イザヤ・ベンダサンbot @Isaiah_BenDasan

⑰彼も典型的な日本人ですから、なぜそうなるかを考えずに、おそらく「書いてしまってから考えた」のだと思いますが、私はこれを、前提を意識しないからだと考えています。従って、やってしまって、その結果を見てはじめて、自分の前提の当否が検討できるわけです。

2012-09-29 14:58:47
イザヤ・ベンダサンbot @Isaiah_BenDasan

⑲しかし日本人が意識しようとしまいと、踏絵を差し出すからには、差し出す基礎となる教義があるはずです。私が日本教と呼ぶのは、この教義を支えている宗教です。

2012-09-29 16:58:48