- IWJ_matome
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神話のふるさと島根から帰ってきて、書庫から古い岩波文庫版の「古事記」を引っ張り出し、昨日、今日とパラパラめくる。つくづく感じるのは、出雲神話の占めるウェートの大きさ、存在感。古事記三巻中上つ巻は、スサノオノミコトや、その子孫、大国主命が活躍するおなじみの物語がずらり。
2012-10-03 02:55:14続き。スサノオが退治したとされるヤマタノオロチは、出雲の斐伊川が氾濫する様子の表象で、退治とは治水事業と解されている。稲葉の白ウサギの物語も、国引きの神話も、国譲りの神話も、出雲神話。島根の地に足を運ぶと、古事記成立の8世紀の時代とさして変わらない、八雲たつ出雲神話の光景が。
2012-10-03 03:10:53@iwakamiyasumi ヤマタノオロチを退治するスサノオじゃなく、ヤマタノオロチをなだめ諭すこの子が好き http://t.co/nzaFq8SI
2012-10-03 03:16:36続き。神話は、古代の歴史的事実の、なにがしかは伝えているものだと思う。時系列はぼやけているが、舞台となった空間はそう大きく変わらない。現代の事件の現場だけでなく、神話の現場にも足を運んでみるのは大事なこと。地理的空間を実感することで、建国の消息をうかがい知ることができる。
2012-10-03 03:29:09続き。スサノオが新羅から上陸したとされる神島。新羅からはアメノヒボコという新羅の王子もやってきたと、記紀に記されている。地元の方は、「海流の影響か、海岸にハングル文字の書かれた瓶など、いろいろなものが韓国から漂着する」と。昔も今も。 http://t.co/FT6WESYC
2012-10-03 03:34:46@iwakamiyasumi わたしも神話をじっくり考察したり、地理的空間を実感することはとても大切だと思う。そしてスサノオの系譜とアマテラスの系譜をじっくり考える必要があると思う。なにが失われたのか。何をとりもどすべきなのか。さて、岩上さん、そろそろおねむの時間ですよ。
2012-10-03 03:35:46続き。それだけに、国引きの神話の下りには、さまざまな思いにとらわれる。ヤツカミズオミヅノミコト(八束水臣津野命)が、「出雲は土地が狭い。余っている土地をよそから持ってこよう」と言って、周辺四ヶ所の土地に綱をかけ、引っ張ってきた。新羅の岬、隠岐の島、能登半島の珠洲、弓ヶ浜半島。
2012-10-03 03:48:02@iwakamiyasumi 岩上さんの歴史観、いわゆる史実の説明と違って、生きている感じがしてとても新鮮です!いつか、是非本にして欲しいです。
2012-10-03 03:48:10続き。もちろん、遠くの土地を引き寄せることなど、現実にはできはしない。国引きの神話が伝えるのは、出雲の土地の開拓、干拓などの古代公共事業の記憶であり、「引き寄せた」のは、その土木事業に従事した労働者ではないか、と思うのだ。
2012-10-03 03:55:11続き。大事なことは、出雲を中心としてぐるりと見渡すその視野に、「新羅の岬」が収まっていたこと。地理的に、出雲と新羅はそれほど近いということ、同時に、この神話の成立時期は、高句麗、百済、新羅の三国が並び立った三国時代(紀元4〜7世紀とも)からそう遠く外れていないことを意味する。
2012-10-03 04:05:00@iwakamiyasumi けれど、世界史も日本史も古代は謎だらけ、本当のところはわからない。この世界がすべて偶然で成り立っていると結論付けるのは無謀かと、
2012-10-03 04:10:01@iwakamiyasumi 気候の寒冷化にともない 大陸で食べられなくなった人たちが渡ってきたと奈良の学芸員さんが言ってました。気候の境目は文化の境目とかもうすぐ寒冷化。時代の変わり目?大神神社から偶然 大和神社 石上神宮を参拝しましたが 祀られていたのはみなニギハヤヒでした。
2012-10-03 04:17:28続き。新羅が国号を改めて新羅と名乗ったのは、503年。古事記成立は、712年(和銅5年)だから、そう古い昔ではない。地理的にも近い出雲と新羅は、深い関わりがあったことだろう。他方、北九州及び大和の王権は百済と密接な関わりがあった。新羅と唐が組んで百済を滅ぼしたのは660年。
2012-10-03 04:31:37続き。斉明天皇のもとに百済から救援の要請が届いたのが660年。しかし661年、斉明天皇は病没。遠征事業を継いだのは中大兄皇子。蘇我入鹿を自ら斬り捨てた乙巳の変は645年。その後、大化の改新を行い、公地公民制、中央集権制、班田収受法など一大改革事業に取り組んでいた最中の出兵である。
2012-10-03 05:14:00@iwakamiyasumi 災害を受けて 苦しんでいる人たちを 何と思っているのか? 政治家は 税金を使って、馬鹿にしている。自分達の職務をないがしろして、国民の目を外に向けさせようとしている。
2012-10-03 05:16:13@iwakamiyasumi (*_*)滅ぼされた国の人が日本に纏めて逃げてきたらしいですね。畿内に残ったり、関東に移されたりした渡来人。彼らの科学力の恩恵は大きかったようですよ。
2012-10-03 05:19:53@iwakamiyasumi そのようなことで、日本国は良いのか。中国は声明を世界に発表して 世界に大義を堂々と発表しているのに、日本国は卑劣、陰気な石原氏に振り回されていて、日本国の意志さえ表明できない有様である。
2012-10-03 05:22:02続き。だが、170隻もの軍船を率いて唐・新羅連合軍に挑んだ倭軍は、白村江の戦いで大敗を喫してしまう。7世紀当時としては、世界帝国を相手にした世界大戦で大敗したわけで、大変なショックだったろう。滅んだ百済の王族らを伴って引き揚げたあと、中大兄皇子は即位して天智天皇となる。
2012-10-03 05:22:50続き。その天智天皇の崩御のあと、皇位継承をめぐって戦乱が巻き起こった。壬申の乱。672年。翌673年に天智天皇の弟・大海人皇子が即位。天武天皇を名乗る。これまでの大王(おおきみ)という尊称から、初めて天皇号を名乗り、「古事記」「日本書紀」を編纂させた。
2012-10-03 05:31:44@iwakamiyasumi 丹波、但馬地方には集落の入り口に柱を二本立てて、ワラ作った蛇を飾り付けます。その蛇の腰(?)には木製の件が取り付けてあります。そのような集落が今でもあります。揖斐川の氾濫、、、。余りにも、、、。という感じがします。
2012-10-03 05:47:19@iwakamiyasumi 白江で破れた、倭国は百済とともに滅んだという説のあるのはご存じでしょうか。太宰府には唐の将軍が進駐していますし、水城はC14によれば六世紀のものといいます。
2012-10-03 05:51:47@iwakamiyasumi 白村江の段階における「倭軍」とは、すでに百済の一部だったと考えます。507年継体王の即位が倭が百済に編入されたことを意味し蘇我氏ら秦氏が大和王朝を構築した。白村江戦争の本質は、唐新羅(漢族)対、女真族の民族戦争だった。百済の女真が日本に追放された
2012-10-03 05:52:14