女傑・秦良玉について

秦良玉についての私の連続ツイートをまとめたものです。 8年も経ってからミスに気付くという大失態が発覚しましたので追記致しました。 以下は関連(?)するまとめです。 続きを読む
17
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

さて、久しぶりに、中国史における女傑について、つぶやいてみる。

2012-10-07 12:59:12
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

今回は、明史・列伝第一百五十八に伝のある秦良玉。ここ十年で知名度が抜群に向上した印象がある。光栄三国志の古武将でゲームに出たり、ネットの発達で、史書に特筆される存在であることが良く知られるようになったからだろう。

2012-10-07 13:01:50
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

明史には、「良玉為人饒膽智,善騎射,兼通詞翰,儀度嫻雅」「胆略と智謀に優れ、騎射に巧みであり、また詞文にも通暁しており、立ち振る舞いは優雅であった」とある。大絶賛である。

2012-10-07 13:06:00
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

また、将帥としての統率振りを「而馭下嚴峻,每行軍發令,戎伍肅然」「軍令は峻厳であり、命令を下すごとに隊伍は粛然とした」と描写している。

2012-10-07 13:11:06
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

「所部號白桿兵,為遠近所憚」彼女が直卒する部隊は白桿兵と呼ばれ敵に恐れられた。トネリコを材料とした長矛を用いたためにこの名がある。

2012-10-07 13:17:12
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

秦良玉は明代末期において、縦横無尽の働きを見せる。泰昌帝のとき、遼東に兄の秦邦屏、弟の秦民屏を送り、かの地への援軍とする。天啓元年、弟は囲みを破ってのがれたものの兄が渡河の最中に戦死するにあたって自らも精鋭三千を以って遼東に赴く。その途上、略奪などは一切なかったと史書は伝える。

2012-10-07 13:24:01
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

このとき、彼女は兄の戦死と遺族の保障を朝廷に奏上し、皇帝もこれに応えて、兵部尚書張鶴鳴は石砡・酉陽の二土司(夫の馬千乗は苗族出身)の功を認め、戦死した兄・秦邦屏に都督僉事を追贈し、弟の民屏の官を進めた。また、この直前に子の馬祥麟は都指揮使に任じられている。

2012-10-07 13:35:35
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

この後、任地に還るが、樊龍(奢崇明と協力していた)が重慶で叛き、秦良玉の下にも賄賂を携えてその使者がやってきた。彼女はこの使者を斬ると、弟と兄の息子たちを率いて出兵し樊龍を破った。

2012-10-07 13:43:36
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

まもなくして、奢崇明は成都を急速に包囲し、朱燮元をして秦良玉を討たしめようとした。ときに土司たちは賄賂を受け取り変事にも動こうとしなかったが、彼女は一人、この状況に立ち向かい西進して新都を収め、長躯して成都の包囲網を突いた。さらに反転して重慶を回復した。

2012-10-07 13:50:31
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

朝廷はこの功績に対して、秦良玉を夫人に封じ、また都督僉事、総兵官に任じた。また、一族の男たちもそれぞれ任官・昇進している。

2012-10-07 13:53:24
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

秦良玉は、朝廷のこの処遇に発奮し、紅崖墩、觀音寺、青山墩の賊徒の巣をことごとく平らげた。(明史には「蜀賊底定」とある)また、貴州の危機にも援軍を送りその回復に功を立てて朝廷から金幣を貰っている。

2012-10-07 13:58:04
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

天啓三年、彼女は次のように奏上している。「臣率翼明、拱明提兵裹糧、累奏紅崖墩諸捷。乃行間諸將、未覩賊面、攘臂誇張、及乎對壘、聞風先遁。

2012-10-07 14:04:30
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

要するに彼女は、その実情を知らずして賊衆を侮るばかりでいざ実戦のときには風の音を聞いて脅えて逃げ出すような輩を、李維新という実例を挙げて、戒め、以って自身を軽んじる馬鹿な男に警告しているのであるが、皇帝もこれに応えて、文武の重臣たちに、秦良玉を礼を以って遇するように通達している。

2012-10-07 14:19:46
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

崇禎三年,永平四城が失陥する。このとき、秦良玉に都にくるよう勅命が下る。彼女は永平の四城失陥の責任を問われると思ったのであろう。家財を部下に分け与えている。

2012-10-07 14:23:27
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

しかし、崇禎帝は、ここまでの労苦、功績に報いるために彼女を都に呼んだのであった。綵幣羊酒を賜り、その功績を讃えて四首の詩を賦した。その上で改めて、四城の回復を命じたのである。

2012-10-07 14:27:32
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

崇禎七年二月、夔州が賊に落とされ、太平も囲まれるが、秦良玉が向かうと、たちどころに賊衆は潰走した。十三年、羅汝才は巫山を扼し夔州に侵攻するが、彼女の部隊が到着するとそこを離脱した。秦良玉は馬家寨に羅汝才を攻撃して首級六百を得ると、それを皮切りに各地で羅汝才の勢力を連破した。

2012-10-07 14:38:32
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

時を同じくして、楊嗣昌は四川に賊が大挙して入ったことを把握すると、邵捷春に弱卒二万を率いらせて重慶を守らせた。とは言っても、秦良玉の軍容は整然としていたのに邵捷春は営を重慶から三・四十里離れた場所に築くばかり。

2012-10-07 14:56:48
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

秦良玉はこの状況を見て、「邵捷春は用兵を知らない。このままでは地の利を失うばかりだ。賊は我々の営を俯瞰できる場所に拠っている。鉄騎を以って攻め下れれば、同僚の張令も敗れる。張令が負ければ、それは私にも及ぶ。賊から高所を奪うべきなのに防御の備えをさせるばかり。これでは必敗だ」

2012-10-07 15:03:27
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

続き)と分析します。元綿州知州陸遜之はこれに同意して、監軍の万元吉と邵捷春をしかるべき場所に移動させて、互いに連携させます。

2012-10-07 15:07:34
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

さて、この年の十月、愈々、秦良玉の人生における最大の敵の名が、彼女の伝に表れます。『蜀碧』で知られる張献忠です。(張献忠は、この四年前の崇禎三年に王嘉胤の反乱に呼応する形で挙兵している)

2012-10-07 15:15:11
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

秦良玉は張令とともに一度は張献忠軍の先鋒を破るが、その張令も敗死。彼女は張令を救おうとして果たせず、三万の部下を失うことになります。

2012-10-07 15:20:03
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

あ、途中から口調が一致しなくなっている。ま、いっか。

2012-10-07 15:21:31
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

秦良玉は、単騎、邵捷春の下に赴き、「事は急だ。私は溪峒の兵卒を尽く動員する。二万にはなる。軍糧の半ばは自弁するから、残りを官庫から出してほしい。そうすれば、賊軍を討つことは可能だ」と説きますが、邵捷春は楊嗣昌と意見が合わず、倉庫の蓄えを見ることもなく、その計を用いませんでした。

2012-10-07 15:32:04
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

また、黃十三家の賊が蜀地に横行する事態となりましたが、秦纘勳という秦良玉の一族の者は賊の耳目となって、官に捕らえられましたが、獄卒を殺して逃亡しました。彼女は、一族のものであろうとも容赦なくこれを捕らえ献上し、この後、脱走を図るものはいなくなったとのことです。

2012-10-07 15:37:21
るーでる@柏葉(※パロディです) @rudel101

張献忠に話を戻しますが、彼は、崇禎十四年、襄陽を落とし、崇禎十六年には武昌を拠点にし、翌崇禎十七年には成都を陥落せしめることになります。

2012-10-07 15:48:11