《自主避難するかしないかの境界に関する体験的意見》

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宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

自主避難した人が善人ばかりなわけでもないし、避難しなかった人が善人ばかりなわけでもない。自主避難した人が知識豊富な人ばかりな訳でもないし、避難しなかった人が知識豊富な人ばかりな訳でもない。一つの軸で人間を二つのグループに分けることは可能かもしれないけど、そこに倫理的な意味はない。

2012-10-10 23:15:09
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

私の場合、たまたま学生時代にパレスチナ紛争に興味を持ち、そこで広河隆一氏の存在を知った。広河氏はチェルノブイリ事故後の現地に何度も入り、放射性物質の被害が心配される子ども達を日本に保養に呼ぶなどの支援を続けていた。広河氏が示す被害は、子どもの甲状腺癌だけではなかった。(続く)

2012-10-10 23:17:55
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

(続き)その広河氏が、東電福島第一原発事故発生直後に、福島県に入り、20キロ圏は勿論、50キロ以上離れていても高い線量があることを知らせてくれた。私の自宅のそばでも毎時50μを計測して「避難するべきだ」と語っていた。私はいずれ避難するしかないと考えた。できれば、地域みんなで。

2012-10-10 23:21:11
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

(続き)私は、3月12日に、自宅付近にも避難指示が出ると重い待っていた。14日にも。15日にも。しかし出たのは16日に県立高校の合格発表を行うという連絡だった。その後も少しずつ、各地の汚染状況を伝える報道や発表が続いた。私は避難指示が出るのを待ち続けた。(続く)

2012-10-10 23:23:53
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

(続き)3月末になって、自宅に近い飯舘村が深刻に汚染されていることをIAEAが報じた。広河さんの計測よりも半月遅かった。でも、外圧に弱い日本政府はこれで避難指示範囲を広げるのではないかと期待した。しかし、IAEAは日本政府の方針に迎合した。4月に入っても、私は避難指示を待った。

2012-10-10 23:26:14
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

(続き)4月、学校が始まるという連絡が入った。それまで手に入りにくかったガソリンなどの燃料が入手しやすくなった。これで、各自避難の方針が来ても移動しやすくなったと思った私は、避難指示の拡大を待ち続けた。飯舘村は、避難指定されていなかった。(続く)

2012-10-10 23:28:44
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

(続き)その頃までには、避難した福島県民が県外で嫌がらせを受けたり、子どもがいじめられたりする、という話が福島県内で繰り返し流れた。福島県外で自主避難を受け入れてくれる場所の報道は、全く見当たらなかった。ネットでは、緊急避難を受け入れる家庭の情報が見えていた。私は待った。(続く)

2012-10-10 23:31:04
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

(続き)最終的に私が「自主避難しかないな」と思ったのは、仕事がらみの話を別にすれば、飯舘村が「計画的避難区域に指定されて、今後2ヶ月で避難を完了する」という報道を見てからだ。2ヶ月?その間、住民の被曝は放置するということか?その時、この国も自治体も住民を守らないのだと思った。

2012-10-10 23:33:45
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

(続き)私は飯舘村に緊急の避難指定が来るのだと思っていた。その指定が出たら、「ほら、ここだってわからないんだから、一緒に逃げよう」という話が近所でできるのだと思っていた。だけど、飯舘村の村長は「本当は避難の必要などないのに、国が無理に指定するから、やむを得ず従う」とという姿勢。

2012-10-10 23:36:15
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

(続き)私が住む場所が避難区域に指定される可能性は、ほぼゼロになった。その為近所で、避難させられた飯舘村の人が借家を探しているという話もあった。自宅の周りは毎時2μ程度。空中に微量だが放射性物質が舞い飛んでいるはずの状況。私は妻と2人で、防護しようと努力を続けていた。(続く)

2012-10-10 23:39:48
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

(続き)事故発生直後、電気が3月12日に回復して以来、テレビで事故の深刻化に気をつけながら、夫婦そろってネットでの情報収集を続けていた。結果として一番当てにならなかったのは、理系の大学教員やサイエンスライターのブログだった。彼らは山下俊一氏の人柄を激賞していた。(続き)

2012-10-10 23:43:17
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

(続き)同時に、理系の大学教員やサイエンスライターは安斎郁郎氏なども含めて、100ミリシーベルト以下の被曝による健康被害には全く無知だった。原発労働者の健康被害についても、原発のそばに住んでいた文系の私よりも、知識がなかった。でも昨年4月にはまだ、彼らが無知だと断定できずにいた。

2012-10-10 23:45:44
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

(続き)昨年4月末から5月、6月にかけて、何件かのマスコミ取材に応じた。最初に取材に来た、フジテレビの「とくダネ!」の取材班は、山下俊一氏の矛盾を突き、わが家の防護態勢を電波に乗せてくれた。その頃には、指定がなくとも避難するしかないな、と個人的には決意していた。(続く)

2012-10-10 23:49:15
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

(続き)妻は、5月に入っても、自分だけでも自宅に残ることはできないかと考えていた。回りのみんなを置いて、自分だけ避難はできない。妻はそう考え、夫である私と子ども2人の避難ができないか、考えていた。私は、避難するなら家族4人で同じ場所に避難したかった。(続く)

2012-10-10 23:52:29
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

(続き)結局、私は仕事のほうで色々あって、5月までに退職を決意し、7月末まで仕事を続けて避難することにした。私の代わりの人を見つけるのは急には難しいと思ったからだ。妻は、5月末で仕事をやめ、6月に子どもと避難することになった。5月最初に考えていたのとは、大分違う段取りだ。(続く)

2012-10-10 23:55:50
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

(続き)退職を同僚に打ち明けたあと、数人から質問されたのは「生活できる目当てはあるのか?」だった。正直、そんな悠長な話ではないだろうと思った。火事から逃げる時に、1ヵ月後にどこに住むか考えて逃げるヤツはいないだろう。感覚の落差に、ひたすら落ち込んだ。(続く)

2012-10-11 00:00:03
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

(続き)次に多くの人から言われたのは「これだけ放射線量が下がってきたんだから大丈夫だと私は思う。が、実際には隠されているもっと高い汚染があるのか?」だった。空間線量で毎時2μは、実はとんでもない数字だが、昨年5月の福島県中通りでは、そういう感覚の人間は少数だった。(続く)

2012-10-11 00:02:42
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

(続き)結局、避難した私と避難しなかった人たちとの大きな違いは、どれ位の汚染までなら大丈夫と言えるか、という所だった気がする。ウクライナやベラルーシでも住むのに向かないとされる汚染の中で暮らしている、あっちの国ではそれ以下の汚染でも健康被害が起きている、と思えるかどうかだった。

2012-10-11 00:05:54
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

(続き)そうだ。結局は「ここは危険に違いない」と思えるか、「ここは危険ではないかもしれない」と思えるか、「ここは危険ではない」と思えるか、それが分かれ目だった気がする。ポイントは「知っている」ではなく「思える」なんだろう。私は「ここは危険だ」としか思えなかった。だから避難した。

2012-10-11 00:09:42
宍戸俊則(shunsoku2002) @karitoshi2011

(続き)別れ目が「思える」である以上、全員を同じ方向に向けることは不可能だ。全員留めることも、全員避難させることも不可能だ。だけど、人間が「思う」ことは変わる。変わるのが当たり前だ。そして、皆が同じ方向に変わるわけではない。分断は続く。原発事故は、人を分断する。決定的に分断する。

2012-10-11 00:13:15