塩谷賢 痛みはなぜ思考ではないか

千葉大学で、2012年10月11日に行なわれたという講義(第二回)の文字起こしツイートから、興味深いところを部分的にピックアップしました。 この講義録は、後ほど http://t.co/J7dY5OeM でまとめて公開されるとのことです。
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塩谷賢ゼミ(非公認) @shiotani_bot

で、なんでこういうことを言ったかというと、つまり「考える」ということが哲学意外でもあるのではないか、ということでした。でも、それはあくまでも「哲学」という名詞を軸にして考えているからではないか。「哲学する」という動詞を軸にして考えると、僕はそうは思わない。

2012-10-12 00:52:48
塩谷賢ゼミ(非公認) @shiotani_bot

つまり、いままで形而上学が伝統的に考える対象としていたものが相手だから、形而上学だろうと。でも僕はそんなことあるもんかと言ったわけですよ。考える対象がなんであろうと、考えるスタイル、考え方のほうが問題なんじゃないのと。形而上学の伝統的な対象として確かに時間や存在があげられる。

2012-10-12 01:01:41
塩谷賢ゼミ(非公認) @shiotani_bot

でも、まさにいま、ここで、私が、これをしているということは、差異ではなくて、ただあるわけですよね。これが、個物の典型です。個物というレベルはそういうことがないとスタートしないわけですよ。一方、概念は名前を与えることによって(これは唯名論と呼ばれている立場に近い考え方ですが)、

2012-10-12 02:48:25
塩谷賢ゼミ(非公認) @shiotani_bot

なぜ考える基準を支えなければならないかというと、考えるって、1回考えて終わりになるわけじゃないからです。例えば、痛みという感覚は、考えていることになるのだろうか。違うよね。なぜか。なぜ痛みは思考ではないのか。

2012-10-12 03:09:31
塩谷賢ゼミ(非公認) @shiotani_bot

人間がものを考えるときは必ず何か対象について考えるんだよ、というのが「志向性」の話ですが、まあ、同じようなことは昔から考えられてきたわけですね。例えば、カントが『純粋理性批判』で「経験の可能性の条件は、同時に、経験の対象の可能性の条件である」と述べているように。

2012-10-13 01:32:33
塩谷賢ゼミ(非公認) @shiotani_bot

痛みというのは全体の状態で、だからさっき「哲学する」と言ったのと同じように、痛みというのはただ「痛む」なんですよ。腕が痛いという状態があるんだけど、これは対象なんだろうか、志向的対象なんだろうか。そうではなくて、位置づけ、局所化ですよね。対象ではない。

2012-10-13 01:41:31
塩谷賢ゼミ(非公認) @shiotani_bot

というわけで、痛みには位置があっても対象はない。でも、思考には対象があるという。何が違うんだろうか。

2012-10-13 01:46:35
塩谷賢ゼミ(非公認) @shiotani_bot

私はカント学者じゃないですけれど、カント偉いなと思うのは、彼が現実からスタートして「分析の道」というのを経て、一番底をうったところで、また現実へと上がっていく、「総合への道」というのを言及しているところです。底抜けだったらどうするの? という疑問はあるわけですが。

2012-10-13 02:17:29
塩谷賢ゼミ(非公認) @shiotani_bot

カントは底の部分はアプリオリにある、ということを言っています。この「分析」がたどりつく底について言及している有名な人はもう一人いて、ヴィトゲンシュタインです。後期の。彼は分析における差異をシステム化することをずっと考えていた人ですが、

2012-10-13 02:20:09
塩谷賢ゼミ(非公認) @shiotani_bot

ある時、つるつるした氷の上にいるようで一歩も進めなくなったと、そうではなくて、ざらざらした摩擦のある岩盤の上に立たなければならない、ということを言って、考えたのが「生活世界」という話で、『確実性の問題』では、この底を見出すことが我々に必要だと言うわけです。

2012-10-13 02:24:13
塩谷賢ゼミ(非公認) @shiotani_bot

この、差異があるんだけど「総合」ということを行える、ということが重要です。差異の体系には、ある種の、何らかの理屈・合理性があるわけです。色には色の、材質なら材質の。でも、色と材質を結びつけるものは、それぞれの体系の内側にはないんですよね。しかし、現実に色と材質は結びついている。

2012-10-13 02:32:52
塩谷賢ゼミ(非公認) @shiotani_bot

つまり、どのように「総合」するか、というときに、差異の体系の内側で行うか、外側で行うか、という違いがあるわけです。この、差異の体系の外側まで出て「総合」するということが、個物を作る、つまり「考える対象」を作るということになります。

2012-10-13 02:35:28
塩谷賢ゼミ(非公認) @shiotani_bot

差異の体系の外側で総合を行うことを、僕は「調整する」という言い方で表します。痛みは調整しないわけ。状態だから。でも、痛みに対処することはある。腕が痛いときに、腕にアンメルツを貼ったりする。その対処のときには、ある幅をもって、お互いに関連付けなくてはならない。これは思考です。

2012-10-13 02:41:14
塩谷賢ゼミ(非公認) @shiotani_bot

この総合・調整のひとつの核となるのが、世界なんですよ。総合・調整によって私たちは考える対象を作るわけですが、なぜそれを作るかといったら、世界に対応するためでした。ある望ましい対応の仕方をするために対象を作る。しかし、総合・調整は、“それを超えて”対象を作るんですよ。

2012-10-13 02:49:45
塩谷賢ゼミ(非公認) @shiotani_bot

つまり、差異の総合によって作られた「考える対象=個物」は、新しい差異を生みだす、新しい差異を引きずり込む。例えば、ホワイボードに書くためにマーカーを作ったんだけど、背中を掻くのにも使えた、携帯ストラップにもできた、といった具合に。そういうことを、「創発」と言ったりします。

2012-10-13 02:54:12

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