〔AR〕その19
この中庭は、妖怪化していないペットの餌やり場であり、休憩所の役割を果たしていた。万一、ペット同士が諍いを起こした時は、種類だけでなく、妖怪化しているかそうでないかで、即座に生死が決まってしまうからだ。よって地霊殿の中では、ある程度ペットのタイプによって住みわけがされている。
2012-10-19 21:00:07地霊殿が途方もない規模のペット屋敷であるというのは、地底では有名な話であり、実際に主人のさとりも、ペット全体を把握しておらず、知能のある妖怪化したペットに管理を分散させている。
2012-10-19 21:04:12よって、こうして今のように、さとり自身から餌やりなどの世話を受けるのは、地霊殿のペット達にとってはラッキーデイなのである。色とりどりの毛並みの猫達は、一様に満足そうに餌を味わっていた。
2012-10-19 21:04:27その様子を眺めながら、さとりはここ数日のことを回想した。 いや、何かあっただろうかと努めて回想しなければ、思い当たらないくらい、ここ数日は平穏で何もなかった。 こいしが『Surplus R』の秘密に肉薄した件は、あれ以来何も起こらなかった。
2012-10-19 21:04:50というより、その次の日から、こいしはまた命蓮寺に合宿に行ってしまったため、以来顔さえ会わせていない。 こいしと同じように、空は、時折火力調整のために旧灼熱地獄で仕事をする以外は、もっぱら守矢神社の方へ赴いて実験に精を出していた。
2012-10-19 21:05:13お燐が一番そばにいる時間が長いが、彼女も買い出しや死体集めに奔走しているため、ずっと地霊殿にいるわけではない。 結果、さとりはまともに言葉を交わす相手に乏しくなっていた。お燐や空のように、ある程度の知能を持ったペットは他にもいるが、やはりこいし、お燐、空ほどべったりとはいかない。
2012-10-19 21:06:05回想しているうちに、餌の皿はほぼ空になっていた。頃合いと見たさとりは、猫達をよけながら皿を取り上げる。猫達は、餌をもっととねだったり、スキンシップを計りたいがためにめいめいすり寄ってくるが、さとりは謝りながらもそれらをはねのけた。 「ごめんね、やることがあるから」
2012-10-19 21:06:51皿を抱えて、さとりは中庭を後にした。途中、屋内に入る手前で、さとりは扉のそばに備え付けられている刷毛で体中についた毛を払う。ただでさえペットが多いので焼け石に水なところはあるが、まめにこのように服を整えておかないと、あっと言う間に毛玉になってしまう。
2012-10-19 21:10:12食堂の台所で皿を片づけ、紅茶で一息入れた後、さとりは自室に戻って残っていた仕事をすぐに終わらせた。中庭での餌やりは、実は昼食後の休憩のようなものだった。時刻はまだ昼下がりであり、夕食まで大分時間がある。完全な自由時間だった。
2012-10-19 21:10:53となると、やることはほとんど決まっている。さとりは、注意を払いながらも、自室ドアの正面に置いてあるバイオネット端末を動かした。古明地さとり側のアカウントには、特に新着メッセージはない。
2012-10-19 21:11:15では『Surplus R』側はどうか。確認してみると、いつも通り『Initial A』からの手紙が来ていた。思わず、さとりの頬がほころぶ。最近のさとりは、その名前を見るだけでうきうきとした気分になれた。早速、紙に転写する。
2012-10-19 21:11:42カタカタと音を立てる端末。次々に紙に手紙の内容が転写されていく様子を眺めていくうちに、さとりは、普段とは違うことに気づいた。 「これは……」 転写された紙は二枚。一枚目はいつも通りであったが、二枚目は、普段の文字の手紙ではない。紙一面に広がるモノクロの犬と少女のイラストだった。
2012-10-19 21:12:07そして、大々的に踊っている文字が、さとりの目に飛び込んでくる。 >アリス・マーガトロイドの人形劇 in オータムフェスティバル >会場:人間の里、竹の広場 開演:神無月の某日、○の刻、×の刻の二回講演 >演目:『頼れるアルフレッド』 原作:Surplus R 「わぁ……!」
2012-10-19 21:12:43さとりは、普段であれば絶対に誰にも見せない、しかしある意味で外見相応ですらある、無垢な感嘆を花開かせた。 これは間違いなく、先日の『Initial A』とのやりとりにあった、人形劇の宣伝チラシだ。 「なんて綺麗なイラスト、素敵なデザイン……」
2012-10-19 21:16:07見るほどにため息が出る。写実画を基礎としつつ、鉛筆かなにかで濃淡を付けることで、ファンシーさと暖かみを兼ね備えている。描かれたラブラドールレトリーバーは、まるで写真に納められた本物のアルフレッドそのものにさえ思えるほどだ。 浮き足だって、さとりは自室に戻ると共に手紙を読む。
2012-10-19 21:16:39(前略) >先日許諾を頂いたRさんの小説の人形劇化ですが、なんとか秋祭りでの講演に間に合うとのことです。僭越ながら、私も拙い筆を執って、宣伝広告などを作らせていただきました。今回のお手紙に添付いたしましたので、よろしければごらんになってください。
2012-10-19 21:18:16さとりは、再度広告チラシを見る。ページの右下のはしに、控えめなフォントで、『広告制作:Initial A』と印字されていた。 「すごいわ。Aさんって、こんなに絵を描くのがお上手なのね」 見れば見るほど、その巧みなタッチにさとりは心奪われた。
2012-10-19 21:22:22さとりには芸術鑑賞の趣味はないので、あまり絵のことには詳しくはないが、それでも『Initial A』が非凡な腕前であることは疑いようがない。
2012-10-19 21:26:00さとりは、まるで自分の小説に挿し絵を描いてもらったかのような気分になった。勿論、直接的に小説にあわせたのではなく、あくまでも人形劇宣伝の為のイメージイラストであるわけだが、自分に連なるものがこのように形となるというのは、何か言葉にできない高揚がある。
2012-10-19 21:26:10(前略) >人形師のアリスさんも気炎を上げた意気込みで取り組まれているので、当日がとても楽しみです。 >もしよろしければ、Rさんも是非人里のお祭りに遊びに来て、そして人形劇を見てほしいなと思っています。 「……行きたいなぁ」
2012-10-19 21:30:44とても自然に、それこそ無意識のうちに、さとりは呟いた。 それが非常に難しいことは、勿論承知している。隣接した旧都にさえ滅多に出歩かないさとりが、地上にまで足を延ばし、あまつさえ多くの人が集まるであろう人里のお祭りに赴くというのは、大きなリスクを伴うものだ。
2012-10-19 21:33:21そう、普段の落ち着いたさとりであれば、そう考え直して終わるところだった。 しかし今のさとりは、得も言われぬ多幸感のあまり、外見そのままの無邪気な子供に立ち返っていた。
2012-10-19 21:33:46さとりは想像する。大勢の人々が祭りの熱気に浮かれてはしゃぐ中、広場の中心で演じられる、犬と少女のお話。周り巡る人形の数々が、言葉という糸で物語というタペストリーを紡いでいく……。 「……はっ」
2012-10-19 21:34:15そんな美しく幸せな夢見心地に、さとりは少しの間まどろんでしまった。本当に居眠りしていたように、崩れた肩を持ち直す。 だが、その夢想は、一片も崩れはしない。 「……できるかしら」 この数百年、考えもしなかったことだ。人を襲うのではなく、人と楽しむために、自ら出向くなど。
2012-10-19 21:35:47