gitekiさんの宋銭とその数え方の不思議なお話

地域、業種によって数え方の異なった不思議で面倒な宋銭のお話
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儀狄@パブリックエネミー @giteki

では宋銭の話、始めようかと思います。ちなみに今回私が話す内容の主な参考文献は次の本です http://t.co/rLDhyzoZ http://t.co/2LVPhUHb http://t.co/Kf4OVQCc http://t.co/1jv7ZKSu

2012-10-20 21:26:24
儀狄@パブリックエネミー @giteki

東アジアの銅銭には「短陌」という習慣がありました。簡単に言うと、銅銭が100枚に満たなくても100文扱いするという制度です。まずは導入としてwikipediaをどうぞ http://t.co/gM0qxEnK短陌

2012-10-20 21:29:38
儀狄@パブリックエネミー @giteki

たとえば室町時代の日本では97枚の銅銭を束ねたものが100文扱いとなり、江戸時代には96文になりました。江戸時代の和算の本で、100文の1/3を32文としているそうです。

2012-10-20 21:31:34
moltoke◆Rumia1p @moltoke_Rumia1p

@giteki  ある意味、経済発展による銅銭不足ゆえかぁ・・・;;

2012-10-20 21:31:54
儀狄@パブリックエネミー @giteki

この短陌、いつ成立したのかよく分かりません。魏晋南北朝時代には晋代に成立した書に「人の長銭を取り、短陌を返す」(代金を取るときは100枚で取り、払うときは短陌で返す)という記録があるのでこの頃には既にあったようです。

2012-10-20 21:38:26
儀狄@パブリックエネミー @giteki

南朝でも梁のときに「貫の数だけを数えた」(=1枚1枚は確認しなかった)という記録があるので、この頃には銭のまとまりを問題にし、実枚数を問題にはしないような時代になってきたようです

2012-10-20 21:40:23
儀狄@パブリックエネミー @giteki

@toshiitoh 自分で書いてから「20年間それを続けて自分のものにするため」という理由を思いついてしまったけどきっと違いますよね

2012-10-20 21:42:24
儀狄@パブリックエネミー @giteki

ちなみに魏晋南北朝時代は、銭一枚を(種類を問わず)1文とし、百枚を陌、千枚を貫とする単位が成立した時期でもあります。漢朝時代は万枚単位が多かったそうな

2012-10-20 21:43:29
儀狄@パブリックエネミー @giteki

で、短陌がなぜ成立したかはひとまずさておき、短陌には1.銭不足を緩和する 2.地方との価格差を吸収する という2つの働きがあるようです。

2012-10-20 21:47:11
儀狄@パブリックエネミー @giteki

まず、1について。戦国時代の日本は1550年頃から銭不足に見舞われるのですが、その頃に先ほど書いた『短陌=97枚』の図式が崩れ、枚数が84枚、72枚へと減っていく傾向があります(ついでにこの中に含まれて構わない永楽銭の枚数が増えていく傾向もありますがこれは余談)

2012-10-20 21:49:26
儀狄@パブリックエネミー @giteki

2について。wikipediaに載っている「江戸では96枚だったのが地方では80枚や75枚だったりする」もその事例なのでしょう。清代中国ではこれが本当に恐ろしいことになっていますが、その話は今日はやらない

2012-10-20 21:51:10
儀狄@パブリックエネミー @giteki

さて、本家中国では……北宋の頃から短陌がカオスになってきます。 『東京夢華録』という、南宋時代に北宋開封を回想した文章があるのですが、その中に描かれている短陌は率直に言ってすごいです。伊原先生は「これを見ただけで私が宋代の都市で生きていくのは難しい」と書いています

2012-10-20 21:56:53
儀狄@パブリックエネミー @giteki

東京夢華録によりますと……「官公庁は77を使い、商店街では75が多かったが、魚屋・肉屋・八百屋は72、貴金属店は74、真珠を買う・女中を雇う・動物を買うときは68、本屋は56を短陌に使っていた」だそうです。なお北宋開封で一人の家主が違う短陌で家賃を取っていた事例は実在します

2012-10-20 22:00:22
儀狄@パブリックエネミー @giteki

なぜ商品ごとに違う短陌があるのか。宮澤知之先生は「商品経済が十分に発達していなかったので商品間での互換性が低く、短陌が違ってもさほど問題はなかった」説を採っています。一方で井上泰也先生は「業種ごとに77より低い短陌を使い、納税のときに77にすることで実質的な税金だった」とします

2012-10-20 22:08:18
儀狄@パブリックエネミー @giteki

なお、北宋の時代に既に紙幣っぽいものが流通を始めていた話を以前やりましたが http://t.co/diXtjHPY あの紙幣が額面通りに受け取られるかというともちろんそんなことはなく(そりゃそーだよなぁ)、77よりも低い値で換算されていました。

2012-10-20 22:43:54
儀狄@パブリックエネミー @giteki

南宋の末期に紙幣の百文が銅銭12枚相当だった数学書の記述があることからレートは推し量れるけれども、南宋末期は紙幣発行しまくったので北宋や南宋を通じてそのレベルでレートが低かったかどうかは少し疑問

2012-10-20 22:48:24
儀狄@パブリックエネミー @giteki

で、宮澤先生と井上先生の説はどっちもある程度正しくて、五代の頃に収入は80で、支出は77でやって差額3文を国の収入にしていたらしい。だがその後、民間レベルでさまざまな短陌が発生したのを国が統制しきれなかった(無理にやろうとするときっと、商店組合にストライキされます)というのが真相

2012-10-20 23:07:40
儀狄@パブリックエネミー @giteki

この短陌の習慣はずっと後まで残り、清代にも一貫文(額面は1000枚)=980枚が王朝の公式レートだったのですが、民間では地域と業種ごとに950だったり490だったり180だったりしたそうです。180枚で1貫文って、もはや貫文単位の意味すら怪しいです

2012-10-20 23:16:32
儀狄@パブリックエネミー @giteki

地方の倉庫にもそれなりに収蔵されているはずで、3億貫文発行したうちのかなりの部分が「流通させるための信用代」で、実際に貨幣需要としてあったのは数千貫文にすぎなかったのではないか、というのが宮澤先生の見解。以上、凄いようで凄くないちょっと凄い宋銭のはなしでした

2012-10-20 23:51:30

コメント

第二ぼっち帝國@白靖元年 @EOB2nd 2012年10月21日
宋銭に関する研究著作なら 汪聖鐸 「兩宋貨幣史」(社會科學出版社、2003年)が有名だったり http://www.books.com.tw/exep/prod/china/chinafile.php?item=CN10069178
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