江戸時代からの元号について

江戸時代からの元号についてまとめました。
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笹山登生 @keyaki1117

江戸時代まではこの一覧表 http://t.co/64hdNmoR の通り、即位改元(代始改元)以外に災異改元を中心として一代に何回も元号が変わっていたのですね。最高は後花園天皇の8回でした w RT @bezokuGon おっしゃること理解しました。ww RT

2012-05-21 13:23:17
@miohiroko

0510[元号]江戸の話。続いては江戸時代に使われた元号の意味について取り上げます。元号は奈良朝からすべてを見たほうがその性質や使われ方などの理解が深まるのですが、それは別の機会に譲り、ここでは気楽に眺めることにします。

2012-10-16 17:52:45
@miohiroko

0511[元号]慶長。この年号は江戸幕府誕生以前に作られたもので、8年、家康が征夷大将軍となり、江戸に幕府を開いてから江戸時代の元号となった。つまり、江戸開府にあたっては改元はされていない。この点は注意が必要。江戸開府後、更に10年間もこの安土桃山時代の元号が継続して使われた。

2012-10-16 17:57:53
@miohiroko

0512[元号]慶長。この元号の前は文禄(ぶんろく)。慶長に改元されたのは天変地異のため。勘申者は文章(もんじょう)博士の菅原為経。出典は詩経の注疏。意味は文王の功徳はとても深くて厚く、福慶(よいこと)がいつまでも続く、ということ。改元時はまだ秀吉の時代。天変地異というのは名目→

2012-10-16 18:05:36
@miohiroko

→上のことで、朝鮮遠征がならず、明国との講和を開始するのやむなきに至ったため、元号も変えて気分一新出直しをはかろうとした。3年に秀吉は亡くなってしまうが。

2012-10-16 18:07:54
@miohiroko

0513[元号]慶長。天下を取った家康が文教政策に力を入れたが、出版にも力を入れた。時代が古いにもかかわらず慶長版といわれるこの当時の書物が多く残っている。覆刻も大いになされ、慶長の元号の入った和本(武経七書など)は今でも見かける(数冊架蔵)。

2012-10-16 18:12:23
@miohiroko

0514[元号]元和。げんな。江戸幕府となり、最初に改元されて使われた元号。後水尾天皇即位により。明治より前でも新天皇即位による改元は行われた。ただし、必ずというわけではなく、また、その天皇とともに同じ元号が使い続けられたわけでもない。そのような法律も規則もなかった。

2012-10-16 18:16:08
@miohiroko

0515[元号]元和。勘申者は同じく菅原為経。出典は不明。豊臣家が滅亡したのもこの改元の年。「元和偃武」(げんなえんぶ)という4字熟語がある。江戸人(武士)が好んで使った言葉で、元和とともに武器を置いた、天下泰平の時代となった、という意味。現代は果してどうか。

2012-10-16 18:22:02
@miohiroko

0516[元号]寛永。かんえい(かんねい、とも)。ご存じ、上野寛永寺にその名を残す元号。貨幣、古銭マニアなら寛永通宝か。甲子革命により改元。革命といっても政府を倒すあれではない。すでに忘れ去られた伝統の一つだから、ピンとこないかもしれない。

2012-10-16 18:34:08
@miohiroko

0517[元号]寛永。甲子革命というのはもとは中国の讖緯(しんい)家たちの間で言われてきたもので、甲子(きのえね)の年には天の命が革(あらた)まる、ということ。そこで、この年には元号が変えられた。聖徳太子が十七条憲法を作ったとされるのもこの甲子の年。

2012-10-16 18:39:07
@miohiroko

0518[元号]寛永。勘申者は文章博士菅原長維。出典は詩経の朱子の注より。いかにも朱子学を官学として本格的に採用し出した当時らしい選定だ。武士たち必読の書。愛着も湧こうというもの。寛容で広い世の中がいつまでも続くように、という意味をこめた。

2012-10-16 18:43:22
@miohiroko

0519[元号]寛永。ご存じのようにこの頃は幕藩体制を確立強化するため、キリシタン弾圧といった凄惨な圧制のほか、参勤交代、大名の妻子の江戸定住など、数々の強硬策がとられた(大名の妻子の人質は実は自発的に仕向けたので、最初からそうさせたわけではないが)。元号の意味と実際が乖離した。

2012-10-16 18:47:55
@miohiroko

0520[元号]正保。しょうほう。後光明天皇即位により改元。勘申者は文章博士菅原知長。出典は尚書正義(しょうしょせいぎ。書経の唐代の注釈書)。物事を公平公正にし、その状態を保つこと。政治の覚悟としては立派だ。

2012-10-16 19:16:07
@miohiroko

0521[元号]正保。当時、読み書きができるのはほぼ支配階層に限られ、元号はまだ識字率の極めて低かったこの当時の庶民にとっては読めもせず、意味もわからないのだから、統治の具たり得なかった。あくまで武家と公家における公文書のためのもの、といったような限定的なものだった。

2012-10-16 19:21:25
@miohiroko

0522[元号]慶安。けいあん(きょうあん、とも)。勘申者は菅原為適。改元理由は不明。出典は易経。いかなる時も友と仲良くし助け合えば吉、という意味。原文は長く、その中からおめでたい字を2つ拾い上げたもので、元号そのものは熟語ではない。

2012-10-16 19:45:43
@miohiroko

0522[元号]慶安。農民統制の慶安御触書が出され、将軍や代官に服従すること、年貢の規定、衣食住にわたる細かな指示がなされた。江戸時代は長く、次第に変化変容してゆくが、この頃まではとても陰惨であったことは認めざるを得ない。が、これをもって江戸時代すべてと捉えるのは誤りである。

2012-10-16 19:49:41
@miohiroko

0523[元号]承応。じょうおう。4代将軍家綱が征夷大将軍に任ぜられたため、とされるが(改元物語)定かではない。勘申者は文章博士菅原知長。出典は晋書(しんじょ。正史の一つ)。意味は中国古代の夏(か)殷(いん)周の3王朝が時運を承(う)け法則に応じたということにあやかる。

2012-10-17 06:12:09
@miohiroko

0524[元号]承応。後光明天皇即位によって正保と改元されたが、その後、慶安、承応と改元されている。このようにかつては天皇と元号は一体ではなかった。即位を記念して改元しても、その後さまざまな理由ですぐに変えられた。これが不便という理由もあり現在は一体化されているが、平成になって→

2012-10-17 06:16:43
@miohiroko

→大地震だけでも阪神淡路、それに東日本の各大震災があり、昔ならもう忌まわしい元号としてさっさと変えてしまったが、今はそれもできなくなった。なお平成についてはこの項の最後で特に紹介したいことがあるので、ご注目のほど。

2012-10-17 06:18:58
@miohiroko

0525[元号]明暦。めいれき。後西天皇即位により改元。勘申者は菅原為庸。出典は漢書。意味は天下を治めるにあたり、暦法を明らかにする、ということ。

2012-10-17 09:37:34
@miohiroko

0526[元号]明暦。明暦といえば明暦の大火。死者10万、江戸城の本丸をはじめ主要な建物が焼失、江戸の町も大半が焼けた。この大災害により幕府に初めて都市の防災や整備を意識させることとなり、強権、圧制は早くも一つの転機を迎えることとなった。

2012-10-17 09:41:46
@miohiroko

0527[元号]明暦。被災者のための救護措置や貸付金制度、引き取り手のない遺体の埋葬供養のため回向院を建立するなど、幕府における庶民への義務意識がこの大火をきっかけに持たれるようになった。特筆すべきは江戸城天守閣。このあと二度と再建されなかった。

2012-10-17 09:45:44
@miohiroko

0528[元号]万治。まんじ。江戸の大火により改元。勘申者は菅原豊長。出典は史記。意味は人々(万民)の暮らしが安定することにより、国がよく治まる、ということ。旧唐書(くとうじょ)の類似の文言も出典とされる。

2012-10-17 12:54:54
@miohiroko

0529[元号]万治。江戸開府以来、初めての都市大災害。さすがに幕府権力者たちの衝撃は大きく、元号を変えるに至った。江戸時代の年号としては元禄や文化文政、安政や慶応に比べると馴染みの薄い万治だが、さすがに復興と安定を願う気持ちがよく込められている。

2012-10-17 12:59:01
@miohiroko

0530[元号]寛文。かんぶん。京都大火により改元。勘申者は藤原為庸。出典は荀子(じゅんし)。上に徳が備わって立派であれば、民は寛ぐことができる、ということ。法が整備され正しく行われていれば人々は安心して暮らせる、という解釈もできるが、当時はまだそこまで法治の意識は強くなかった。

2012-10-17 18:26:29
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