2012年10月22日

國分功一郎さんが、想田和弘さんに触発され考えたこと。

哲学者の國分功一郎さんが、想田和弘さんの映画論をきっかけに、贈与論、抽象化の限界、具体的思考とはどのようなものかについて呟かれたのをまとめさせていただきました。
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KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion

想田和弘さんの『演劇vs.映画』刊行記念トークイベントにお呼びいただきました。10/23(火)青山ブックセンター本店。チケットはもう少し残っているようですので是非。http://t.co/VnVE93W8

2012-10-22 01:36:41
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion

想田さんの映画をずっと観ています。僕としてはやはり自分の関心と一番重なる『精神』に猛烈に引きつけられました。岡山の精神科診療所を撮ったものです。

2012-10-22 01:37:45
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion

想田さんはご自身の映画を「観察映画」と呼んでいます。その何かについては、『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書) を是非お読みになってください。僕はこの本と映画を通じて非常に考えるところがありました。 http://t.co/H9ghhyQl

2012-10-22 01:39:59
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion

もうちょっと言うと、「何々とは何か?」、たとえば「ドキュメンタリーとは何か」みたいな問いを、抽象的に考えることの問題点について考えました。これは最近よく思うことなんですが、簡単に言うと、抽象的に考えるとあまり役に立たない極論しかでてこない。想田さんは具体的に考えている。

2012-10-22 01:42:19
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion

「具体的」という言葉はもしかしたらもっと翻訳しなければならないかもしれない。もう少し言うと、濃淡とか度合いがある、そういう現実に即しているということかな。

2012-10-22 01:43:47
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion

想田さんは著書で「ドキュメンタリーは客観的事実を映し出すものだ」という考えを当然斥けつつ、「ドキュメンタリーはフィクションである」という自己反省的認識にも距離を取る。その上で「ドキュメンタリーは良く切れる剣だ。取り扱いに気をつけよう」という当然といえば当然の認識に立つ。

2012-10-22 01:47:00
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion

俺は最近こういう当たり前の考えが重要だと思っている。たとえば、文化人類学の贈与の理論で、贈与は負債を負わせ、その負債によって反対贈与があって…って話がある。これは理念的に考えればそうなんだけど、現実の贈与はもっと濃淡がある。

2012-10-22 01:47:56
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion

安冨歩は『複雑さを生きる』(岩波書店)の中で、中国の黄土高原の村での無償労働供与(=贈与)と有償労働供与(=交換)についてのフィールドワークの成果を簡潔に報告している。これは大変興味深い。簡単に言うと、贈与が相手に負い目を負わせるかどうかは、当事者間の人間関係によるというのである

2012-10-22 02:02:41
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion

贈与は相手に負い目を負わせるから反対贈与を生み出すというのは、理念的に考えれば確かにそうなのだが、現実世界では当事者間の関係が重要だったりするわけである。AがBに大量の無償供与=贈与をしたとしても、それが両者の関係の「濃淡」に影響を与えない限りは何でもない。

2012-10-22 02:04:50
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion

つまり、負い目という強い感情は生じない。ところが、AとBの関係が悪くなるととたんに「負い目」が生じるのだという。しかし、これは考えてみれば当たり前のことである。親しい友人に何かをしてもらった時には、感謝の気持ちはあるが、負い目はない。だから負い目故に反対贈与とはならない。

2012-10-22 02:06:06
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion

しかし関係が希薄になれば、負い目が発生してくる。俺としてはこの贈与理論そのものよりも、こういう現実の関係、当たり前の事柄から理論を考える視点に興味を覚える。というのも、理念的に考えていると論理学の問題に短絡してしまい、その結果、単純な行き詰まりを迎えるからである。

2012-10-22 02:07:53
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion

かつて何でもかんでもゲーデル問題に帰着させるのが流行ったがあれはその極北ではないか。何でもかんでも価値形態論で説明していたのも同じ。あれだと行き詰まる。そして現実に対する目くらましになる。

2012-10-22 02:08:49
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion

かなり遠回りしてしまったし、自分に引きつけすぎではあるが、想田さんの観察映画を観ながら、そういうことを考えていた。なぜなら、想田さんのドキュメンタリー映画をみていても、「純粋な〝観察〟は可能か?」などといった問いを立てる必要を全く感じなかったからである。

2012-10-22 02:10:34
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion

純粋な観察は可能か、という抽象的な問いを立てると、また不確定性定理がどうのこうのとか、そういう話まで遡って、で、結局最初に何を問いたかったのかが忘れられる。

2012-10-22 02:11:36
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion

そしてまた、「自分はカメラを向けることの暴力についてこんなに真摯に考えているのだ!」という単なるプレテクストにもなる。

2012-10-22 02:13:04
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion

抽象的な問いの立て方を避ける立場——俺もその立場にいるつもりだが、いったいこれをどう形容したらいいだろう? とりあえず「具体的」と呼んではみたが…。実はこれはベルクソン的な立場に近いような気がする。あるいはマルクス主義的には自然史的立場とでも言えばいいだろうか…。

2012-10-22 02:15:00
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion

たとえば『暇と退屈の倫理学』の続編『欲望と快楽の倫理学』では、美の体験というのは純粋なものとしてはありえない、必ず概念や言葉が入り込んでくるし、それ故にこそ、美の体験は伝達可能になる、という論点を展開する(ことになっている)。これも似たような立場からの主張である。

2012-10-22 02:16:16
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion

不純物や度合い、濃淡を重視する立場。これが(今の?)理論的な行き詰まりを突破するために必要な立場ではないだろうか。そして、俺はこれは結構ドゥルーズ的だし、デリダ的だと思うのだ。

2012-10-22 02:17:11
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion

デリダは、精神分析における「一次過程」と「二次過程」は結局分けられないとかいった話をする。これは不純物や度合い、濃淡に注目する立場につながっていないだろうか。

2012-10-22 02:17:59
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion

想田和弘さんの『演劇』と『精神』を観ながら(すげー自分にひきつけて)考えたことを連ツイしました。というわけで今度の火曜日のイベント、是非お越しください!http://t.co/PPph3zfG

2012-10-22 02:19:38
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion

あと、この2009年の想田さんのインタビューは大変おもしろかったです。是非参考にしてください。 http://t.co/zowPoTel社会スポーツ/社会派/2178

2012-10-22 02:20:12

コメント

釈聴音 @tsuneduka 2012年10月22日
>「ドキュメンタリーはフィクションである」という自己反省的認識にも距離を取る 例えば森達也氏などは明確にこの立場に立っているわけですが、これから距離を取る必要性というか意味はどこらへんにあるのでしょう。
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