《肥田舜太郎医師講演 「被爆者と生きる」2012年10月28日 文字起こしまとめ》
- karitoshi2011
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-4 社団法人 北海道被爆者協会主催「ノーモア・ヒバクシャ会館20周年記念講演会」(10月28日13時30分~16時 札幌教育文化会館3階) 記念講演 肥田舜太郎さん講演会「被爆者と生きる」以下、内容を連続ツイートします。
2012-10-28 22:28:32-3 あらかじめお断りしておきますが、録画もないこの講演のメモまとめの文責は、まとめ主である私に存在します。「聞き書き」による社会的調査と同様、記録者の主観が混入していることをご理解の上、読んでください。また、文字化するのが困難・不適当と私が判断した部分は文字化しません。
2012-10-28 22:28:45-2 だからと言って、講演者が語っていないことを書いたり、講演者が伝えようとしたことを勝手に歪曲したりすることは、私ができる範囲で避けます。できない部分は、私の能力不足だとご理解ください。
2012-10-28 22:29:02-1 この講演は、「北海道被爆者協会」の主催で、本来は被爆者を中心に計画されたものです。しかし会場を見た限り被爆者本人や家族よりも肥田先生の内部被曝の話を聞きたくて来場した人が多かったようです。肥田先生の話の中には、意見を大げさに言った部分もあるようですが、そのまま文字化します。
2012-10-28 22:29:311 前回来た時には、札幌と旭川で、原発の事故の話を結びつけて話した。95歳になって振り返ると、本当にみんなのことを思って生きる医者になったのは、原爆以後のことだった
2012-10-28 22:29:562 広島で27歳の時に陸軍の軍病院の医師として招集されて、軍人の怪我や病気を見ていた。医師は病人の健康をとり戻すのが仕事だと思っていた。
2012-10-28 22:30:103 軍医として、戦地から送られてきた患者に治療をし、患者のカルテに私が「治癒」と書くと、そのまま戦地にまっすぐ送られる。中国の奥地の、本人が「連隊長以下全滅です」と言うようなところに帰らなければならない。
2012-10-28 22:30:264 長崎から船に乗って中国に着くと、自分の足で、部隊もなくなったところに向かわなければならない。自分の所属している軍隊がなんて出たらめな所なのかと思った。軍隊にほとほと愛想をつかした。
2012-10-28 22:30:425 大きな都市はみんな焼け野原になったのに、何度も飛行機が来る広島では、爆弾が落ちなかった。女学生達が2人で重病人が乗った担架を持ち上げるのは、大変なのに、飛行機が来るたびに2階から降ろさなければならない。毎日来る飛行機にそのようにしていた。
2012-10-28 22:31:026 そういう不思議な状況が続いていた広島に、8月6日に原爆をぶち込んだ。その日偶然、市外の子どもが急病で、そこのじいさまが孫のために私の所在を確かめていて、その日の午前2時に私が病院にいるところに爺さんが電話をかけてきて、「おじいさんが自転車で迎えに行く」と言われた。
2012-10-28 22:31:247 自転車の後ろに乗って走るのだが、おじいさんの後ろで、舗装もされてないでこぼこの道で、ゆれるたびに私は落ちてしまった。それでおじいさんは私の体を紐で結びけて乗せていった。
2012-10-28 22:31:428 その(往診先の)家で寝坊したので、8時15分、そこで被曝した。(爆心地から)7キロ離れていたので焼け死にはしなかったのだが、熱かった。熱かった後、いつまで経っても普通の爆弾なら来る「ドカン」がなかった。
2012-10-28 22:31:579 広島の雲ひとつない青空の真上に火の輪ができた。赤い色のきらきら光った火の指輪みたいなものができていた。輪の真ん中に雲の塊ができて、その塊が火の輪の中で広がり、輪と一体になった時、直径700メートルの火の玉になった。びっくりして、目が離せなくて見ていた。
2012-10-28 22:33:1110 火の玉の下が広島のはずだが、地表から火の玉の端までが350メートルあった計算になる。上は記憶にないが、下にある広島に向かって、火柱が立っているように見えた。火柱は非常にきれいだった。それを言ったら、「不謹慎だ」と言われたが、赤や緑や黄色、いろんな色がピカピカ光っていた。
2012-10-28 22:33:2511 その下で悲劇が進行していたのだが、実際見えなかった。広島市から、太田川の上流に1つ行ったところが私の村だった。広島の南は海なので、それ以外の3方向に人は逃げた。広島から私の故郷に向かう道があったのだが、北に逃げる人はその道をみんな通った。村が1つの大きな収容所になった
2012-10-28 22:33:4212 8月6日夜は6000人、翌日12000人、9日の朝28000人という記録がある。みんな道を歩いてくるけれど、道の途中で死ぬ人も多かった。なんとかたどり着ける人だけが来た。
2012-10-28 22:34:0013 村の建物も爆風で全部つぶれていて、学校の校庭が収容所になっていたのだが、敷地の中に入るのにも、誰か踏みつけないと入れない状況だった。医者なのに、触れるところが体のどこにもない。全部焼けていて、触れない。体の半分以上焼けているのだから、医者の教科書で考えても助かるわけがない。
2012-10-28 22:34:3014 4日目の朝、九州小倉の部隊から軍医や看護婦が広島の援助に来た。村にも医者が27名、看護婦と衛生兵が120名入ってきた。その人たちは、倒れてきた人を1人1人見る。熱が出てくる人がいる。
2012-10-28 22:34:4815 「軍医殿!熱が40度出てます!」と言われて飛んでいくと、内科だと40度出るのはまれなので、その感覚で行く。見ると、性別もわからない、あちこち焼け爛れている。目じりから血が出ている。そういう理屈はどの医学の本にもない。ないけれど目から血が出てる人がたくさんいる。
2012-10-28 22:35:0516 熱があるので扁桃腺を見ようとする。横を向いてい寝ているので、見れない。どう工夫しても見えないので、こっちも地面に顔をつけて口の中を見ようとすると、横に近づいただけで、どうしようもないほど臭い。口の中が腐っている。
2012-10-28 22:35:2117 訳がわからないので、膝まづいて、周りを見ると、同じような状態の人が多い。みな口が焼けているので話せないので、手まねで「こっちを見ろ」と示す。体の半分が焼けていて、皆焼けていないほうの半分を示す。焼けてないほうを見ると、紫色の斑点が出ている。
2012-10-28 22:35:4218 紫の斑点については内科の先生が教えていたことを思い出した。「これは滅多に見れないものだ。血液の病気で、大体助からない患者があと2日か3日で死ぬような時に出る。だから大半の医者は見ないで医師生活を終えるだろう」と言っていたことを覚えていた。それ位珍しいはずだった。
2012-10-28 22:36:0119 (原爆投下から)2日か3日は、皆やけどで死んだと思っている。村長は、「死者の名前と死んだ理由をわかる範囲で書いてくれ」と言った。3日までは私は全部「火傷」と書いた。
2012-10-28 22:36:2220 応援の医者が来た3日目の夜。粘膜からの出血。体内からも出る。腸や、女性の前の方、体内からも出る。みんな血が出てる。肺の中も出血するので、鼻と口から血を吐いて死ぬ。見てるこちらも血をかぶる。
2012-10-28 22:36:42