お江戸の大名屋敷について

お江戸の大名屋敷についてまとめです。
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@miohiroko

0641[武家]大名屋敷。続いては江戸における大名の屋敷について。各大名や旗本、御家人たちの住まい=屋敷は例外なくすべて幕府(つまり将軍)のものであり、どんな大藩の広大な屋敷であろうと、すべて借地・借家だった。江戸府内に私有財産は許されなかった。この点は重要だ。

2012-10-31 18:20:12
@miohiroko

0642[武家]総登城。このため、江戸にある屋敷はすべて拝領屋敷と呼ばれ、拝領=その家に対して授かったもの、使用権を与えたということ。そのためもしその家が断絶した場合、親類や家老などの家臣への相続は許されず、ただちに没収された。しかも即日である。

2012-10-31 18:24:05
@miohiroko

0643[武家]総登城。有名なのがこれまた忠臣蔵の赤穂事件。浅野内匠頭が吉良上野介に殿中で刃傷に及び、激怒した将軍は浅野に切腹(名ばかりで実際は庭での切腹で下級武士の扱い)を命じ、そのため規定として浅野藩邸も即日召し上げとなった。驚天動地の大騒動とはまさにこのこと。

2012-10-31 18:27:51
@miohiroko

0644[武家]大名屋敷。(見出しが前のままになっていました(#^.^#))土地と建物本体は幕府のものだが、障子や襖、畳、欄間、雨戸、それに庭木や庭石など、建物や土地に付随するものは居住者が自費で整える。が、屋敷を出る場合、これらはただちに処分しなければならなかった。

2012-10-31 18:33:07
@miohiroko

0645[武家]大名屋敷。持ち主のいなくなった屋敷は、取り潰しによる断絶が多かった5代綱吉の頃までは他の者が移り住んだが、あまり断絶がなくなった6代以降は、その屋敷を取り払って更地にし、防火のため火除け地にすることが多くなった。延焼を食い止めるため。

2012-10-31 18:37:39
@miohiroko

0646[武家]大名屋敷。旗本や御家人の屋敷も同じで、借り物。奉行クラス(3千石程度)だと立派な屋敷で、いわゆる役宅としてそこで政務を行ったりもした。そのため、お役御免となれば出て行かなければならない。

2012-10-31 18:40:55
@miohiroko

0647[武家]大名屋敷。身分が軽いほうが気楽なのが当時の常。部下の与力や同心たちも拝領屋敷(といっても、下のほうになると長屋)をあてがわれるが、この者たちは世襲が多く、世襲による所有権の移譲も認められていたから、不始末でも起こさない限り子から孫と住み続けることができた。

2012-10-31 18:44:30
@miohiroko

0648[武家]大名屋敷。さらに下の者に対して寛容というかいいかげんというか、拝領屋敷を売ったりまた貸しするのは厳禁だが、同心や与力のような300坪もある屋敷では、江戸後期にもなると半分を医師や儒者、剣術指南に貸して医院や私塾・寺子屋、剣道場を堂々と開業させて副業としていた。

2012-10-31 18:49:49
@miohiroko

0649[武家]大名屋敷。公務員が副業とはけしからん、というのは今の感覚。当時はあくまで場を提供しただけで、これにより浪人救済にもなり(つまり就職口が増える)、町人にとっては医者や塾がきちんとした所で開かれるのだからとても安心だった。道場は今のジムと同じ。みな共存共栄で支えあった

2012-10-31 18:53:21
@miohiroko

0650[武家]大名屋敷。江戸初期に建てられた大名屋敷はいずれも絢爛豪華で贅沢の限りを尽くした。重厚なのはもちろん、屋根や門扉などは日光の東照宮陽明門のような装飾まで施した。平和な世となったとはいえ、まだ各家とも武門の気風がそのままあったから、建物でも力を誇示したわけだ。

2012-11-01 18:28:31
@miohiroko

0651[武家]大名屋敷。これに目をつけたのは幕府。すぐに大御所として駿府に移ってしまった家康は別として、2代秀忠、3代家光は頻繁に各大名屋敷を訪問(=御成り)した。将軍が訪問するとなると、迎える大名側は最高のもてなしをしなければならない。別にそういう規則があるわけではないが。

2012-11-01 18:32:39
@miohiroko

0652[武家]大名屋敷。他の大名より更に建物を立派にし、飾り付けもきらびやかで食事も豪勢なものに。よそではこんなことをした、という情報がもたらされると、負けてはならじともっと良くする。競争原理が見事に働いて、家光の代までに建てられた屋敷は立派なものとなった。

2012-11-01 18:35:17
@miohiroko

0653[武家]大名屋敷。屋敷に金をかけさせるために将軍はわざと訪問を繰り返したが、これが参勤交代にも活かされることになる。定期的に江戸に詰めることは命じたものの、道中の詳細については指示しない。それでも各家が競争して金をかけるようになったのだから、無言の指示圧力畏るべし、だ。

2012-11-01 18:38:22
@miohiroko

0654[武家]大名屋敷。ところが、さしもの豪華を競った大名屋敷も一大転機を迎えることになった。明暦の大火だ(明暦3年、1657年1月)。この大火で江戸城をはじめ大名屋敷の殆どが焼失し、このため屋敷は江戸城から遠ざける形で分散、質素で実用第一なものとなった。

2012-11-01 18:42:35
@miohiroko

0655[武家]大名屋敷。各藩の江戸出張所とも言うべき大名屋敷は2ないし3種類持つことになっていた。上(かみ)屋敷。これは藩主が江戸滞在中に住む所。そのため規模が大きく、建物もしっかりしたもの。明暦の大火以降も上屋敷はできるだけ江戸城に近い所に設置するように決められた。

2012-11-01 18:49:35
@miohiroko

0656[武家]大名屋敷。上屋敷は現在の丸の内、霞が関の官庁街に集中していた。江戸がそのまま現代に生きている一例。中屋敷。これは大藩だけに許されたもので(そもそも小藩では余裕も必要もない)、参勤交代で随行してきた家臣たちの宿舎として使われた。

2012-11-01 18:52:52
@miohiroko

0657[武家]大名屋敷。下(しも)屋敷。これは引退した元藩主の隠居所、世継ぎの住まい(皇室の東宮御所のごとし)、藩主の別荘などとして自由に使われた。大名屋敷については以上ですが、後日、当時の地図で詳細を眺める予定です。

2012-11-01 18:56:35