11/11ポーランド独立記念日企画:ポーランドと俺
- rekiltu_bot
- 4041
- 0
- 0
- 0
あ、みなさん。Labas vakaras!今日はポーランドの誕生日―1918年の独立記念日ですね。あの頃の俺は周りを気にする余裕なんてなかったんで、あいつがどういう風に独立したかって辺りは良く知らないんですけど
2012-11-11 21:00:23知らないことがあったって喧嘩したことがあったって、俺達は何百年もの間、ずっと隣で生きてきたんだ。だからきっと、何があっても…あ、そうだ。良かったら少し、俺の話を聴いてくれませんか?ちょっと昔話をしたい気分なんです
2012-11-11 21:03:10…最初に国としてのポーランドに会ったのは確か13世紀の初め頃でしたね。ラトビアが帯剣騎士団のところに逃げ込んじゃったもんだから、他にご飯を獲れる先を探してて。ポーランドの方は先にウクライナさんから俺のことを聞かされてたらしいんですけど…そのせいかな、凄く怖がられたなぁ
2012-11-11 21:06:3313世紀のポーランドは、西からドイツ人、北からプロシア人(プロイセンとは別ですよ)、東からタタール…と俺、といった感じで周囲から苛められる生活を送っていました。だから身を守る為にドイツ騎士団を呼び、ウクライナさんと同盟を組んだんですよ
2012-11-11 21:09:25ポーランドとウクライナさんが手を組んだことでウクライナさんからご飯を貰うのも家を広げるのも難しくなってしまった俺は、1262年、つい腹を立ててポーランドを泣かせちゃったんです。…あいつは二度と同じ目に会わないように国境に頑丈な砦を建てました。これがワルシャワです
2012-11-11 21:12:07とはいえベラルーシちゃんと一緒に住むようになってからは俺も生活に困らなくなりましたし、家を広げるなら東って決めてたんでそう関わりを持つ機会はありませんでしたね。カトリックを敵に回すと面倒だって思い知らされましたし。ウクライナさんを巡って争った時だって殴り合いの喧嘩は避けたんですよ
2012-11-11 21:15:44関係が変わったのはヨガイラ様個人に因る所が大きいでしょう。文化的にも制度的にも進んでいて尚且つそんなに強くないポーランドを何とかして手に入れる方法はないか、あの方は若い頃から考えていました。「私の時代が来たらまずポーランドゲットしたい」ってお母さんへの手紙にも書いていた程ですよ
2012-11-11 21:18:40ルV-ˇ.ˇ-)。oO(そっか、あっちの話が聞こえるってことはこっちの話も聞こえるかもしれないなぁ。俺、これから聞かれると凄く恥ずかしい話をしようとしてるんじゃ…
2012-11-11 21:21:31それからは皆さんのご存じの通り、クレヴォ合同で俺達は同君連合となりました。お二人の結婚式の時もその後もずっとそうでしたけど、とにかくダサいって思われたくなくてポーランドに会うときは変に気合が入っちゃってたのが、思い返すと恥ずかしいなぁ。…でも今も多少そういうところはあるかも…はぁ
2012-11-11 21:22:03ちなみに、連合王国って名前の国が生まれた訳じゃないですよ。一門とはいえ違う君主が立っている期間は緩やかな同盟関係に戻っていました。お互い抱えてる野望も違っていたんで、それで良かったんだと思います。背中を預けられる国があるってことはそれだけで凄く心強いことでしたから
2012-11-11 21:24:30ただ、やがて上司はポーランドに行ったっきり帰ってこなくなりました。上司がポーランドで生まれ、ポーランド語を話し、ポーランドの常識で物事を考えるようになれば、俺も自然とそれを当然のこととして受け入れるようになってしまったんです。…ルブリン合同で国としての機能を制限されてからは尚更に
2012-11-11 21:27:48知らないところから上司を次々連れてくるポーランドに振り回されてベラルーシちゃんやウクライナさんにも嫌われて疲れ果てて。それでも戦いに勝てるうちは良かった。強くなった周りの国に脅かされるようになると、あいつは益々人の話を聞かなくなったし現実を見なくなったし我儘になりました
2012-11-11 21:30:43…けれど俺は黙ってついていくことしかできなかった。そしてリトアニア・ポーランド分割(と俺の家では言います)。何故こんなことになってしまったのか、ロシアさん家で考え昔の事を思い出せば思い出す程、どうすればいいのかわからなくなりました。1830年や1863年の蜂起の際も
2012-11-11 21:33:41エミリヤ・プラテルテ嬢のように無邪気に「ポーランド王国」を復活させたいと願う人がいれば、ヴィリニュス大学では「リトアニア」として国を再建させるべきだと議論が行なわれていました。流石に当時ATRを復活させたいという声はありませんでしたね…当時は、まだ
2012-11-11 21:36:09時代は下ってWW1終結後。独立を宣言し再び、ううん、新しい国として1からやり直そうとしていた矢先、ポーランドとは戦いになりました。別々に暮らしていた間、俺はクレヴォ合同がそもそも間違いだったと考えるようになり、あいつはATRを復活させるべきと考えるようになっていたから
2012-11-11 21:39:12ルV;・ヮ・)<あ、ATRというのはAbiejų Tautų Respublika…二国民の共和国のことです。ルブリン合同で一つの国として生きてくことになってから分割されるまでの、俺とポーランドの名前です。ポーランド・リトアニア共和国とも言いますね
2012-11-11 21:42:02この辺の話は丁度今日の記念日に纏わる時代のことですから、よかったら歴ポーの管理人さんのお話(http://t.co/n0HWU0U)を読んでみて下さい…あまり俺からは触れたくない内容ではあるんですけど
2012-11-11 21:42:42ポーランドが言うには、あの時代も、そして今も、俺はあいつにとっての"tęsknota"なんだそうです。悲しみや憧れを伴う懐かしさ、とでも言えばいいのかな。…何だか複雑だなぁ。じゃあ、俺にとってポーランドは何なんだろう?
2012-11-11 21:47:15喧嘩別れしたまま俺はソ連に連れて行かれて、あいつがどうなったのかも分からないでいたけれど、1989年にポーランドが民主化したときの騒ぎは俺の家にも聞こえてきました。応援された訳じゃないですが、俺も負けちゃいられないって勇気づけられたなぁ…ってことはライバル、なのかな
2012-11-11 21:50:31うぅん…それもちょっと違うかもしれないですね。ソ連を出て、ポーランドと仲直りして国境を決め直して共同で首脳会議開催して、やっと俺はヨーロッパに戻ってきたんだって思えたんです。勿論NATOやEUに加盟できるまでは不安でいっぱいでしたけど、ね
2012-11-11 21:53:15ポーランドは昔から基本的に細かい事を気にしない奴だったから、俺は同盟を組めたし同君連合として東欧一の大国にもなれた。キリスト教も憲法も建築技術も文学も、俺にとってのヨーロッパはポーランドからやって来た。…少し洒落た表現を使うなら
2012-11-11 21:57:35