表象文化論学会ミニシンポジウム「イメージの権利」、その後の議論
告知が直前になってしまいましたが、明日10日の表象文化論学会のミニシンポジウム「イメージの権利」に参加します。岡田温司さん(問題提起)、橋本一径さん、森元庸介さん、木下千花さん(司会)とご一緒します。概要はこちらです。 http://t.co/TOkglJF5
2012-11-09 23:19:32http://www.repre.org/conventions/7_1/1_3/
第7回研究発表集会|ミニシンポジウム「イメージの権利」(コラボレーションルーム1)
日時:2012年11月10日(土)
場所:東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム
午後2 16:00-18:00
問題提起:岡田温司(京都大学)
加治屋健司(広島市立大学)
橋本一径(早稲田大学)
森元庸介(東京大学)
司会:木下千花(静岡文化芸術大学)
著作権をめぐる近年の動向は、イメージを扱う研究者にとっても決して無縁のものではない。権利上の問題により、論文等への図版の掲載を断念せざるを得ないという経験は、多くの研究者が日常的に味わっていることだろう。主として営利目的の場面を想定して整備されてきた法や制度に、現状では研究者は一方的に従うことを余儀なくされている。しかしながら欧米の学会などにおいては、イメージの利用についての独自のルールを作成し、ステートメントを公表しているところも少なくない。表象文化論学会もまた、そのようなステートメントを出すか否かの判断を迫られる日が、遠からず訪れるのは間違いないだろう。本シンポジウムは、そのための準備として、個々の具 体的な場面に立ち入るよりも前に、まずは歴史的・哲学的な観点から、「イメージ」と「権利」の関係を問いなおすことにより、議論の土壌を整えることを目指す。森元は、イメージに関する規範形成を考えるにあたって範例となる思想史的場面のいくつかを確認しつつ、翻って権利と侵犯の境界が自明性を失う地点を問題化する。橋本は、19世紀において写真の著作権が初めて問題とされた際の議論を手がかりに、「著者」や「作品」という概念が、そこでいかなる変容を迫られたのかを考察する。加治屋は、現代美術の分野で「著者」や「作品」の概念がゆらぐ事例を検討して、今日のイメージのあり方を考察する。
私は、現代美術の分野で作者や作品の概念が拡散的で多孔的になっている状況について話しますが、それを、作者や作品の概念に対する批判としてではなく、アートにおけるコンティンジェンシーに対する関心の高まりとして考えたいと思っています。
2012-11-09 23:23:43著作権をめぐる近年の動向を踏まえたシンポジウムなので、他人の写真を使ったウォーホルやラウシェンバーグがどう訴えられたかという話もしますし(ウォーホルは3回訴えられている)、作家が、自分が作った作品の著者から降りてしまう事例などについても話します。ご興味があればぜひお越しください。
2012-11-09 23:29:19今回は学会発表ではなく、シンポジウムへのパネリストとしての参加なので、ディスカッションの論点の提供と考えています。個別の事例のいくつかは自分で調査しましたが、議論の枠組みは http://t.co/6E0QwMJD や http://t.co/FfKtiJKh を参照しています。
2012-11-10 00:30:35シンポジウム「イメージの権利」、加治屋健司氏の発表は愉しかった。会場から「イメージ自体の権利とは物自体の権利と同様、設問に無理がある」との真っ当な疑問が出た。その応答のなかで加治屋氏は「流通しなければイメージではない」と語った。それは記号としてのイメージで、イメージ自体ではない。
2012-11-10 18:39:18また加治屋氏は「ポップアートは偶然でできている」とも語った。偶発的に出会ったイメージをコラージュするからだというが、ならば公募展系の風景画家たちも同様だろう。問題はそこで何を選択し、何を捨象するかであり、その操作もまた「イメージの権利」というテーマからは逸脱する。
2012-11-10 18:45:46結局、「イメージの権利」における“イメージ自体”とはなんだったのだろう。その設問自体について問うたのは件の若手学者のみだった。あるいは表象文化論学会においては、representation(表象)されるべき原表象なるものが仮設されているということだろうか。
2012-11-10 20:24:00学会終了。ミニシンポジウム、正直「この学会で著作権の議論って?」と思っていたが、予想を遥かに超えて面白かったし、示唆的な話がいろいろと聞けてよかった。「イメージ」という言葉の持つ多義性・多重性・輪郭の緩さ(ゼミで散々議論になっている)が、ここでも裏テーマとして」あるのかな、と。
2012-11-10 20:29:51最後に、「イメージの権利」というタイトルからは、「イメージに対して誰かが所有する権利」と「イメージ自身の有する権利」の二通りの次元が引き出せるのでは、という議論になったけど、個人的には後者のモメントが気になる。『イメージ、それでもなお』で扱われている問題とも通じるような気がする。
2012-11-10 20:35:58ディディ=ユベルマンの『イメージ、それでもなお』は、断片的なイメージ群からイメージ不可能な領域というものをイメージする試みだった。イメージ不可能性のイメージは卑近な他者からもつねに喚起されるものだが、それはメタイメージという作用であってイメージ自体ではありえない。
2012-11-10 21:43:41他者に他者として対峙するときの基本的な認識とは、彼/彼女(たち)がいかなる状況においても<自分にみえない何かをみている>ということ。そのためには同じ物、同じイメージをみていると考えたがる投影癖にたいして厳格な、保留が不可欠となる。
2012-11-10 21:54:21保留というのは往々にして思考停止と混同されがちであるが、実際はきわめてプラトー的な、きわめて能動的な実践である。保留に耐えられない人々はつねに<理解>の陥穽に嵌まる。荘子の渾沌の神に七穴を穿った客人たちのように。
2012-11-10 22:09:27imago ipsa loquiturと言ってしまうと、「(私たちの)想像力」の問題ではなくなるか。元ネタのres ipsa loquiturは現在では訴訟上の過失立証責任に関する術語になっちゃっているけど、「モノ自体が語る」っていう発想が独特で面白いと思うんですよね。
2012-11-10 23:23:00@sskyt なるほど、ラテン語の原義だとそういうニュアンスなんですね。imageが多義語であり、さらに「イメージ」と表記すると和製英語的なニュアンスも付け加わってしまいがちなので、この語自体が厄介です。
2012-11-10 23:27:49イメージが増殖・複製(自己複製?)・変容・融合・伝播・流通・埋没・消滅・(他者による)想起などへと「開かれている」ことを「イメージの権利」と言い得ないか、とも思うのだが、あえてそれを「権利」(droit/right)という語で呼ぶ必然性があるのかどうか。
2012-11-10 23:36:44とりあえず書いた。あまりちゃんと考えてないけど思考整理ということで。 イメージそれ自体に権利はあるのか。 - 昆虫亀 http://t.co/p1I5YnrY
2012-11-11 00:49:15一点、ミニ・シンポジウムの、或る氏の質問について。「旧来の美学」と「表象文化論」との差異が明らかになった対立と捉えても(煽っても)よかったのかもしれない。これは、ある種の活性化のための言い方をしている。
2012-11-11 02:21:12「モノそれ自体の権利を認める」と、煎じ詰めれば作品の(美学的な?)評価が出来なくなる、という突っ込みであったように思うが、「傾聴すべき意見」という「枕詞」で迎え撃ってよかったのだろうか。もちろん、これはどちらに対しても批判などではない。
2012-11-11 02:23:25.@zepkark 本日は参加できていないのですが、こういう見解(質問者のものかもしれませんね http://t.co/tn3u0we1… )に散見される揶揄のトーンを「超えた」形で生産的応答ができると良いのではとおもいます。
2012-11-11 02:26:34イメージについて、狭義の法権利も含まれるだろうけれども、同時にカントが言うところの「権利問題」を問うというトーンが濃厚なはずで、もちろん語彙が同一である以上生じる諸問題はあるにせよ、「同じ語を用いるからこそ可能な問いかけ」もまたあるように思う。
2012-11-11 02:32:18