ポケジェクト「超」場外乱闘:「ポケモニズム」について延々考えてみた
─ポケモンの「文化」化について、誰もが「著作権」という縛りなく自由にポケモンを創造すれば、なるほどそれは「文化」となりうるが、しかし現時点においてポケモンは「著作権」のような法の縛りを受けている
2012-11-21 05:46:41─本論がいう様な文化とは、私の物差しで言えば「ポケモンの絵を公募展に堂々と展示する」行為に相当するだろう。しかし、それを現在行えば、周囲はどう感じるだろうか。ポケモンが「文化」となるには、ポケモンの16年はまだまだ短すぎる。
2012-11-21 05:48:28─日展や二科展にポケモンの絵を出しても叱咤されるだけだ。しかし、「誰かの後援を受けて」「公式のお墨付きを得て」ポケモンを文化として展開することは、現在においても可能かもしれない。例えばだが、株式会社ポケモンと任天堂がスポンサーになり、「ポケモン芸術祭」を開く事はできるだろう。
2012-11-21 05:53:18それは意図する所とは異なるかもしれない。だが、それが現在のポケモンで「文化」を作る上での限界である。今のところ、ポケモンはまだ「日常」や「存在」ではなく、「ゲームフリークの創造物」であり「ゲームのキャラクター」、あるいは「アニメのキャラクター」なのだ。
2012-11-21 05:58:37「ポケモンと文化」についてはここまで。ここから「ポケモニズム」について考え始める。
─「ポケモニズム」については、ポケモンは必ずしも壮大な神話体系を持つ必要はないかもしれない。信仰対象は土着の民話や伝承程度でも生まれ得るからである。「お狐様」や「お狸様」が壮大な神話体系を必ずしも持っていないように。
2012-11-21 06:02:30あくまで「独自の壮大な神話体系を持ちうる可能性がある」ということだ。また、既存の神話にポケモンが身体を獲得する可能性も考えうる。
2012-11-21 06:04:15一部のポケモンイミグラントやポケモンネイティブの中においては、既にポケモニズム・・・「ポケモン信仰」の原型が生まれているかもしれない。「あらゆるものがポケモン化する」ポケモニズムには程遠いかもしれないが、「現実のある事象をポケモンと一体化させ信仰する」向きはあるかもしれない。
2012-11-21 06:08:29ここで重要なのは「身体性」である。身体がなければポケモンは「架空の存在」のままだ。現実世界に根を下ろして、はじめてポケモンはこの世界に顕現する。その身体を想起するのが「想像力のポケモン化」なのかもしれないが。
2012-11-21 06:10:58・・・思うに、この「身体性を獲得したポケモン」が奉られる聖地とは、ポケモンセンターとも違うのではなかろうか?「現実世界に現れたポケモンの世界」という意味ではポケモンセンターも異界だが、この「身体性を獲得したポケモンの聖地」は、より現実に近い場所かもしれない。
2012-11-21 06:14:57「この世界に現れたポケモンの世界」ではなく、「現世に顕現したポケモンが座する場所」とでも言おうか。例えば「ニョロモ大明神」という祠があったとして、それはポケモンセンターと同一であるだろうか、と。
2012-11-21 06:16:57その意味では「ポケモン遊園地」とポケモニズムは共存でき、ポケモンの日常化とも相反しないかもしれない。ポケモン遊園地やポケモンセンターは「我々がポケモンの世界に行ける場所」で、ポケモニズム的な意味でのポケモンの聖地は、「この世界にいるポケモンに逢いに行く場所」と考えればよい。
2012-11-21 06:21:29ここで時間を改め、数時間後、再度「ポケモニズム」について再び考える。
身体性とはモノや空間、場所と自身の記憶や言葉(言語というよりは感覚的な意味での言葉だろう)、身体がどのように関わっているかを意識する感覚である。井上リサ(@JPN_LISA)氏の受け売りめいた面はあるが、実際氏から教わったようなもので、自分もだいたいそのような意味で捉えている。
2012-11-21 14:58:09ちなみに、井上リサ(@JPN_LISA)氏の仰られているところの「身体性」については、以下の通り
「場」や「空間」や「モノ」と、自分の「記憶」「言葉」「身体」がどう関わっているかを意識する事、です。RT @kinggyueda: @Eikoyamashita 「身体性」という概念、もうひとつよくわからないです。なにか別の表現があると、わかりやすくてありがたいのですが・・・・
2012-11-16 22:51:32@kinggyueda @eikoyamashita 「身体性」。例えば女川発電所ならば、その設計思想が携える東北の民俗伝承、それが記された文書と、自分の「言葉」「記憶」「身体」がどう関わっているかを、深く考える行為です。これは、タブローの基本的な見方と変わりません。
2012-11-16 23:03:15ツイート引用、ここまで。
もう少し踏み込むと、ある「場所」や「モノ」と、自分自身の身体の感覚や人生経験、言葉に表せる感性との間に、繋がりを感じ取れる(または繋がりを見出せる)感覚といえばよいだろう。
2012-11-21 15:01:16身体感覚とは「場やモノと自分自身がリンクすることを感じ取れるorリンクさせられる感覚」と言えばよいかもしれない。
2012-11-21 15:02:14