『敗戦処理』としての関が原
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jonathanohn
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雑談・関ヶ原の兵数のことなど http://t.co/mzwCg5rB やはり関が原は「敗戦処理」に近いような戦いだったのかねえ。いろいろ辻褄合っちゃうんだよな。
2012-11-22 20:08:08
まあ、岐阜城あんな短期間に落とされて、戦略方針完璧に崩壊した西軍の側にいたら「あ、やべ、とっとと乗り換えないと」って、ほとんどの将兵が思っちゃうよなあ・・・
2012-11-22 20:12:11
IF-CONで大山格先生を交えて皆でおしゃべりしたのですが、関ヶ原の合戦の趨勢は、福島正則らが岐阜城を落としたときについていたのではないか、という風になりましたね。 @Jiraygyo
2012-11-22 20:12:34
@bakagane しかしあの時の大山さんの話だと、豊臣政権において家康と利家が役割がはっきりしてたのが、家康一極集中になっちゃった。それではまずいので三成一派はガツンといわせて利家の後釜に毛利にしたかっただけだった可能性も、微粒子レベルであるのかな
2012-11-22 20:26:50
@hisima はい。ただ、これだけ大事になっちゃうと、落としどころがその程度ですむかどうか、かなり微妙なんですよね。どうも、三成の頭の中での構想と、現実の動きに、三成自身にも制御できていない、乖離があったのではないかと私は思いました。
2012-11-22 20:30:00
でもそれだと徳川家不在すぎになるから・・・だよね?(笑) RT @bakagane: IF-CONで大山格先生を交えて皆でおしゃべりしたのですが、関ヶ原の合戦の趨勢は、福島正則らが岐阜城を落としたときについていたのではないか、という風になりましたね。 @Jiraygyo
2012-11-22 20:14:51
はい。腰が重かった家康が、あわてて江戸を出発し、秀忠にも「はよこい、真田? そんなん後回しでええからっ!」と書状を送ったのも、岐阜城陥落が、何を意味するか分かったせいかもしれません。 @Jiraygyo
2012-11-22 20:16:47
むしろ関が原の一戦がなかったら家康やばかったよね RT @bakagane: はい。腰が重かった家康が、あわてて江戸を出発し、秀忠にも「はよこい、真田? そんなん後回しでええからっ!」と書状を送ったのも、岐阜城陥落が、何を意味するか分かったせいかもしれません。 @Jiraygyo
2012-11-22 20:21:39
西軍といっても、毛利(の一部)と宇喜多、石田三成らをのぞけば、「なんやなんや、上杉討伐で大阪まで来たらなんかしらんが、内府とケンカせえ言われたで」みたいなノリで、どちらかというと巻き込まれ西軍が多かったはずです。秀頼と朝廷を擁し、勝てそうだから西軍、というのも多かったでしょう
2012-11-22 20:21:49
まったくもって。なので大山格先生は、「家康は、三方原の逆パターンを狙ったのではないか」説を提唱されました。関ヶ原に向かうとみせ、追撃してきた大垣の石田三成軍を待ちかまえて逆襲し、「やっぱ、家康すげえ」とVPを稼ぐつもりだったのではないかと。決戦? なんで? @Jiraygyo
2012-11-22 20:24:24
日露の頃の火力あってすら10万近い軍同士が勝負つけるの半月以上かかっているのだものねえ、奉天会戦とか。一日で総崩れってのは、かなり当時の人も不可解だったんだろうな RT @bakagane: まったくもって。なので大山格先生は、「家康は、三方原の逆パターンを狙ったのではないか」説
2012-11-22 20:27:05
@Jiraygyo @bakagane 岐阜城陥落で勝負がついたとまでは言えないでしょうけど、あれで流れが決定的になった感じはありますね
2012-11-22 20:30:23
それにしても岐阜城は、斎藤道三、織田信長という名将が精魂込めて手を入れた城だというのに、落城し過ぎですね。やはり基本の設計思想が鉄砲以前だったというのもあるのでしょうけど
2012-11-22 20:32:30
@1059kanri 天下の名城というのが攻め込んだ側の宣伝というか皮肉なんだろうなと思えてきますw 実際登ってみるととても攻めこめそうにないんですけどね。
2012-11-22 22:53:11
家康と頼朝はただ「勝つ」んじゃなくて、どういう形で勝つか、何を勝利とするかを重要視しているあたり、ステージが違いますな。色々な意味で。
2012-11-22 20:32:49
逆に心と統制が折れずにもう一戦できたのは、なんだかんだ言って三成たちも大したもんだよ RT @1059kanri: @Jiraygyo @bakagane 岐阜城陥落で勝負がついたとまでは言えないでしょうけど、あれで流れが決定的になった感じはありますね
2012-11-22 20:32:47
それは確かに。三成って、あの暗黒太陽な太閤殿下の子飼いだけあって、実務レベルでやるべき仕事を与えられると、やはり超有能だったんじゃないかしらと。構想レベルだとなんかいろいろ、アレっぽいですが。旧日本軍的な楽観主義と行動主義な感じで @Jiraygyo @1059kanri
2012-11-22 20:35:53
@bakagane @Jiraygyo @1059kanri 経験したことがない仕事、それも天下を二分する大戦の構想レベルの仕事なんて上手にこなせる人間はそうそういないから、むしろ関ヶ原での戦闘に持ち込めただけ「よくやった」ぐらいに思いますよ
2012-11-22 20:41:15
まさにまさに。そのへん、トヨトミ財閥の急成長の中で山のような仕事をこなして、経験値詰みまくってるだけのことはあります。こういう仕事は、才能より場数ですね。 @sweets_street @Jiraygyo @1059kanri
2012-11-22 20:44:29
@bakagane @Jiraygyo @1059kanri こんな大戦なんて一生で何度も経験するものじゃないから、胆力や人望、実務レベルでの手際なんかが物を言うだろうと思います。その点では三成はよくやったというべきなんでしょうね
2012-11-22 20:46:28
@Jiraygyo 決戦主義のの三成が決戦場として関ヶ原に布陣ではなくて、劣勢続きで岐阜城陥落で美濃をほぼ失い、関ヶ原で防衛線を敷かないと一気に畿内に押し通されるからの泣く泣くの防衛線とすると、防御形態で山上布陣の毛利、大局の空気を読んで戦意の無い長宗我部島津、も合点がいきます
2012-11-22 20:33:06
佐和山城は大変素晴らしい城ですが、「首謀者が本城に追い詰められてしまった」というのは、本気で配線イメージ強すぎますものね。もう佐和山城に触れられたら対外的威信ボロボロでしょう RT @hiranokohta: @Jiraygyo 決戦主義のの三成が決戦場として関ヶ原に布陣ではな
2012-11-22 20:36:36
それこそ『城下の盟』というのが無能な大名の象徴ですから、すでに城下に敵軍が来た時点で石田三成の政治生命は終わりです。なにしろ織田信長、羽柴秀吉からして、常に国外で戦って相手の領土で戦って天下を制してきた人たちですもの。なので佐和山城には触れさせることすら不可。
2012-11-22 20:38:46