- sakaki_koheita
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さてと、弟がいない間に弟の奥方と、もうひとり、八幡郭の方の話でもしましょうか。もっともあんまり記録に残っていないので、適当ですけど。話半分で聞いてくださいねー
2012-11-22 21:40:20弟の正室はご存じのとおり大須賀五郎左衛門康高殿の娘御ですね。大須賀殿は元々榊原家と同じく、酒井将監さまに仕えておりましたが、三河の一向一揆の際に岡崎側、つまり家康公についたと言われています。
2012-11-22 21:43:45(=´▽`)ノ RT @NatsukaMsie1600 |・) RT @sakaki_koheita 五郎左殿って言うと、丹羽殿みたいですね(笑)
2012-11-22 21:46:55そのご三河の奉行をつとめたりなさいまして‥‥あ、これ有名な三河三奉行の天野殿高力殿さくざ殿になる前の話ですね。で、色々あって横須賀城主になられました。息子さんもあったんですが、事情があって出家なさっています。
2012-11-22 21:49:07そこで弟の正室となった彼女が嫡女となったわけです。そのため、弟の子をひとり、大須賀家に養子に出しました。これが私の甥っ子である大須賀五郎左衛門、出羽守忠政。
2012-11-22 21:51:24詳しい事はなにも残っていないのですが、徳川の旗本先手組はその組織の性格上、全員浜松城に屋敷を賜ってそこに住んでおりました。もちろん家族も。なので大須賀家もそうですが本多家や大久保家、その他先手の方や家老の方々は皆ご近所さんなんですねー。あ、私は違いますが。
2012-11-22 21:55:58私はその頃はまだ岡崎におりました……。で、当然家族ぐるみのつきあいになりますので、弟も少なくとも結婚相手の顔ぐらいは知っていたと思います。五郎左殿にはお世話になってたようですし。
2012-11-22 22:01:18そこに恋愛といえるものがあったのかどうかは謎ですが、弟は実は女性は苦手なんですよねー。そして大殿がのりのりで祝言の仕度をさせましたよね絶対。
2012-11-22 22:05:47そして養子に出した長男が生まれたのは私が蟄居してからだったりします。私の子はその時まだ出仕しておらず、もしかしたらその分、使命感を上乗せしてしまったかもしれませんねぇ…
2012-11-22 22:09:55忠政が生まれたのが天正9年、そして長女、さらに二女が生まれ、天正13年に次男の忠長が生まれています。5年間で4人生んだら、今の世でも結構しんどいんじゃないかと思いますが、頑張りましたね……
2012-11-22 22:23:40そして天正12年には小牧長久手の戦い、13年には伯耆殿の出奔と、あと私の三男の生まれてますね。後に久能山に入る子ですけれど。そして14年には大殿と朝日様の婚礼、と徳川家にとって大きな出来事が続きます。
2012-11-22 22:33:09豊臣家に従臣することになってから、大殿の婚礼以外でも、色々と家臣同士の婚礼などがありまして……それが長束大蔵殿と本多中務殿の妹御の婚礼や、鳥居左京殿と生駒殿の娘御の婚礼になるわけです。
2012-11-22 22:39:45そんな中で、太閤殿下はあちこちで奥方のいる者には側室をとるようにとすすめられたそうで……、そんなわけで、弟のところに側室が入ることになりました。のちに館林城の八幡郭に入ったことから、八幡郭の方と呼ばれます。
2012-11-22 22:44:10八幡郭の方の出自は花房氏なのですが、これは宇喜多家臣・花房職之殿の娘か縁者だろう、ということでした。後に弟が花房職直殿を大殿にひきあわせて榊原職直殿となりますが、それも八幡郭の方のことがあったからでしょう。
2012-11-22 22:49:02宇喜多騒動の時に、弟が調停役として最初にひっぱりだされたのも、花房氏と縁戚だったからでしょうね。ま、そちらの結果は不首尾だったそうですが。花房職之殿は佐竹家預かりでしたっけ。確か小田原の陣の時に何事かあったような… あ、関係ない話でした。
2012-11-22 22:51:43小田原の陣の時には、家族を呼ぶようにという太閤殿下のご命令で八幡郭の方は小田原まで来ていて、そこで三男の小十郎康勝を生みました。身重なのに旅は大変だったでしょう。駿府から来たのか、それとも上方から来たのかはわかりませんが。
2012-11-22 22:55:33