「さかもと問題」に対するより良識的な意見として「寛容を説く」ものがあった。さかもとの不寛容を責め,他者の行為に対して寛容であることの大切さを述べるというものだ。しかしそのとき「泣く子どもや親」に対して寛容であるのと同様に「さかもとに対して寛容である」ことはなぜ求められないのか。
2012-11-23 07:49:24そのための物語はさかもとを責める誰もがそれぞれに紡ぎ出せるだろうが,まとめれば「子どもが泣くこと」は正しいことか,少なくとも常識の範囲でしかたがないことであるのに対し,さかもとの「クレーム」は非常識で正しくないということに収斂すると思う。
2012-11-23 07:51:58あるいは「悪でないものに対しては寛容であるべきだが,悪に対しては寛容であってはならない」と書けば,誰もがおよそ「そうだよな」と感じると思う。さて,法律に照らして明らかに犯罪であるようなこと以外の「悪」は誰がどうやって決めるのか。
2012-11-23 07:54:11暴力団の問題でも,私も暴力団の犯罪については厳格に対処すべきだと思う。しかし暴力団員の日常生活まで制限すること(宅急便の授受をさせない,ネットに接続させない,買い物をさせないなど)にはときどき疑問を持つし「これはいじめではないか?」と感じる。
2012-11-23 07:58:33今日は授業日なのだけど,なぜこういうときには,マスコミや世間の皆様は,「祝日に授業をやるとは大学は非常識だ.世間ずれしている」とか言ってくれないのか :-)
2012-11-23 07:59:26いじめの多くもその「それまでに培われてきた社会的な暗黙のルール」に則って行なわれますよね。 RT @nalcnalc: それまでに培われてきた社会的な暗黙のルールと言わざるを得ないかと
2012-11-23 07:59:27暴力団対策も生活保護の厳格化も社会から締め出して根をあげさせるという発想は同じだが解決にならない RT @ynabe39 暴力団員の日常生活まで制限すること(宅急便の授受をさせない,ネットに接続させない,買い物をさせないなど)にはときどき疑問を持つし「これはいじめではないか?」
2012-11-23 08:06:01たとえば同じことがイスラム教徒に対して行なわれたらどうだろう。「イスラム教徒の宅急便は受け付けない」「イスラム教徒のネット接続は認めない」といったら多くの人が「それはいじめだ」と思うのではないか。暴力団についてそれを感じないのは「暴力団は悪だ」と考えているからである。
2012-11-23 08:06:46やっていることは同じでも「悪い奴に対してそれをやる場合はいじめではなく,悪くない奴に対してやる場合だけがいじめ」ということになっている。そうであれば本質的な問題は(いじめの善悪ではなく)「その人を悪と判断する基準の妥当性」になってしまう。
2012-11-23 08:11:59それをできるだけ明確に客観的に決めるために作られたのが法制度で,私も法律で犯罪と定められたものにも寛容になれと言ったら社会は成立しないだろうから,そこは(さまざまな問題ははらむにせよ)まさに「しかたがない」と思う。しかし「犯罪ではない悪への寛容」についてはどうだろうか。
2012-11-23 08:14:12まあ私が言うことというのは,わかる人には私が言わなくてもわかっていることだし,わからない人には私が言ってもわからないことだとは思う。
2012-11-23 08:17:56「表現規制問題」でも同じことが問題だと感じた。「有害表現の規制」について「有害な表現は規制しなければならないが,性表現は有害ではないから規制すべきではない」というのが多数派の意見だった。だから「性表現は有害か否か」という価値判断が本質的な論点になってしまう。
2012-11-23 08:21:34「悪いものはいじめてもかまわないが,悪くないものをいじめるのはよくない」「悪いものを責めたり攻撃したりすることはいじめではない」というのはまさに「常識」だろうし,それに異論を唱える人は少ないのだろうと思う。しかし私はどこまでもそこに引っかかってしまう。
2012-11-23 08:23:27学校や職場のいじめだって多くは,その閉じた環境の中でなんらかの意味でその人が「悪い」と位置づけられることがきっかけになるのではないか。そして加害者だけではなく被害者まで「自分が悪いからいじめられる」という価値判断の中に取込まれるから,悲劇的な結末が生じるのではないか。
2012-11-23 08:26:07いじめのほとんどは,そうですよね。 RT @rizumita: 当事者たちからは、悪いものをいじめてるんじゃない、ただしているんだ。って言われそうです。
2012-11-23 08:27:14「悪い奴はどこまでも追いつめてよい」とか,それこそ「悪い奴が批判に耐えかねて自殺でもするなら社会のためにはいいことだ」くらいに考えることといじめが「まったく別のこと」だとはいえないと思う。
2012-11-23 08:29:20@ynabe39 おはようございます。いじめのマトリョーシカ的構造については、私も思うところです。「これはいじめじゃない、しつけだし、悪ふざけなんだ」を大きくすすると、ネット上で正当化された「悪いやつだから特定して追い詰める」につながると思います。
2012-11-23 08:32:20それは書こうと思っていました。「異質だから悪い」「和を乱すから悪い」「みんなと同じでないから悪い」ということですよね。 RT @yasuyukima: 悪いというか違う、かなぁ
2012-11-23 08:32:35学校や職場のいじめで「加害者」の「これはいじめではない」という主張がふつう受け入れられないのは「被害者の悪さ」がクラスや学校,その職場などの閉じた限られた領域だけで共有されていて外部に対して妥当性を持たないからだろう。
2012-11-23 08:35:51しかしその内部にいる人間にとっては「被害者の悪さ」は疑いの余地がなく,「いじめではない」というのも言い訳ではなく本気なのだ。とくに(学校でのいじめによくあるように)教師も「被害者の悪さ」についてはある程度その認識を共有しているような場合はなおさらである。
2012-11-23 08:37:39@ynabe39 「目には目を、歯には歯を」は、たとえどんなに悪いやつであっても、その罪の重さ以上に刑罰を与えてはならないという意味。って話をちょっと思い出しました。
2012-11-23 08:38:13昨夜は失礼しました。この言説ならば同意です。そのとおりですね。 RT @ynabe39: 「悪い奴はどこまでも追いつめてよい」とか,それこそ「悪い奴が批判に耐えかねて自殺でもするなら社会のためにはいいことだ」くらいに考えることといじめが「まったく別のこと」だとはいえないと思う。
2012-11-23 08:39:08この問題について考えるときにいつも思い出すのは昔どこかの県であった「制服登校を拒否した中学生が校則を守らせようとする教師にだけでなく他の生徒からもいじめ抜かれて転校した」という話である。「学校社会から見て悪」であれば教師と生徒が協力して排除していくわけだ。
2012-11-23 08:40:43