【作業授業】未来の哲学へのひとつの視座【同時並行】
いずれにせよ、ぼくは(当日も議論ではなかったと記憶していますが)ソーカルは基本正しくて、ただ、あのとき言ったのは、(1) たとえば、ラカンは完璧アウトだけど、ドゥルーズは中ぐらいで、デリダはちょっととばっちりじゃなかろうかとか、そういう細かい差異はあるのはあるのだということと。
2010-08-10 13:39:55(2) ひとには比喩を使う権利はあるし、(ここ大事ですが)そもそも大陸系の哲学の一部はとうの昔に科学ではなく文学になっているのだから、比喩を比喩として使っている人間をあまり暴力的に断罪するのもいかがなものか、という2点につきています。
2010-08-10 13:41:43たとえばフランスだとわかりにくいのでドイツの例で行くと、フッサールの科学的誤謬を衝くのは意味があるけど、ハイデガーの誤謬は衝いても意味がない。あれはカルナップが同時代に正確に指摘したように科学よりも詩に近い言語だからです。
2010-08-10 13:43:17そしてラカンはそもそもが、「フロイトのハイデガー的解釈」のひと、つまり「科学言語の詩的再構成」をやっているひとなのであり(そんな彼が精神分析という「科学」を標榜していたことは責められるべきでしょうが)、したがってあまり彼の科学的誤謬を衝いても意味がないのです。
2010-08-10 13:45:11……といった感じかな。結局応答してしまったw でもこれ以上は遠慮させてください。ほんと、すぐにいいがかりがくるのです。@kikumaco
2010-08-10 13:45:59ちなみにぼくは(だれでもそうだと思うけど)、ぼくの文章が嫌いなひとに「好きになれ」なんて言ったことはありません。そうでなくて、たとえみなさんの目から見えぼくがバカでくだらない人物でも、ぼくの文章が好きなひとはいるのだから、放っておいてくれと言っているだけです。@kikumaco
2010-08-10 13:47:56比喩を使う権利も自由もあり、それを批判する権利も誰にでもありますね。そして、これは「ジャンル」の問題ですが、文学における比喩は端的に「うまいか下手か」「通じるか通じないか」、あるいは「どれだけの読者をあきらめるか」に尽きると思います。あ、別に返事はなくてもいいです @hazuma
2010-08-10 14:47:49フィクションの中でなら、なにをどうでたらめに使おうとかまわない。フィクションというのは嘘を書くものなので、「でたらめ」だという理由で非難するのはどうかしています。ただ、「でたらめ」だという理由でつまらなく感じることも読者の権利なので、それはしかたがないのです。 @hazuma
2010-08-10 14:51:38全面的に同意しています。RT @kikumaco 比喩を使う権利も自由もあり、それを批判する権利も誰にでもありますね。そして、これは「ジャンル」の問題ですが、文学における比喩は端的に「うまいか下手か」「通じるか通じないか」、あるいは「どれだけの読者をあきらめるか」に尽きると思い
2010-08-10 14:55:47そしてこれも同意しています。RT @kikumaco (..) フィクションというのは嘘を書くものなので、「でたらめ」だという理由で非難するのはどうかしています。ただ、「でたらめ」だという理由でつまらなく感じることも読者の権利なので、それはしかたがないのです。
2010-08-10 14:56:12というか、ぼくも小説書いたりアニメの原案やったりしているので、そんなことは十分承知しているつもりです。ぼくは「QF」なり「クリュセ」なりについて、「これをおもしろいと思わないのはきみがダメなのだ」とは一瞬も一回も言ったことがないはずです。なにか誤解されているのでは……
2010-08-10 14:57:19おもしろい、おもしろくない、と思うのが読者の権利なんて、そんな基礎的なことをわかっていない人間だと思われている、という事実に深い衝撃を受けている。そんな先入観をもたれているのでは、ぼくはもうどうしようもないです……。S
2010-08-10 15:00:51いや、それが考えすぎなんですよ。僕は「面白い面白くないは読者の権利だということも東は理解していない」なんてことは言っていないんですよ @hazuma
2010-08-10 15:03:04了解しました。ではなにが問題になっているのでしょう……? RT @kikumaco いや、それが考えすぎなんですよ。僕は「面白い面白くないは読者の権利だということも東は理解していない」なんてことは言っていないんですよ
2010-08-10 15:04:20なるほど! いや、これは哲学史的にかなり一般的な理解のはずです。ぼくが強弁しているのでありません。RT @kikumaco いっぽう、フランス哲学の一部はもう文学だからいい、というのは、少なくとも僕には理解できません。
2010-08-10 15:06:25日本で「現代思想」と呼ばれ、英語圏で「Theory」と呼ばれることが多い戦後のある世代のフランス哲学者たち(ラカンだけ一世代上ですが)は、ハイデガーにきわめて強い影響を受けています。デリダにしろドゥルーズにしろ、「ハイデガーの翻訳者」だと言っていい側面すらあります。
2010-08-10 15:08:28おそらくそうなのでしょうが、僕は哲学を知らないので、哲学とは文学ではないのだろうと思うわけです。したがって、それを読むモードはフィクションではなく科学のモードになりますよね。それが、僕が「ジャンル」の問題と言っていることなのですが @hazuma
2010-08-10 15:09:42だからソーカル事件の起源はじつはハイデガーなのです。さっきカルナップの名前を出しましたが、ハイデガーと論理実証主義(ウィーン学派)というのは同世代です。強力に科学志向の論理実証主義(のち英米系の分析哲学)と、強力に文学志向のハイデガーに分化するところから20世紀の哲学は始まった。
2010-08-10 15:10:18したがって、「科学と文学」「論理と詩」に分化してしまった20世紀の哲学を今後どうするべきか、というのはきわめて重要な問題です(これは拙著「存在論的、郵便的」でも扱っています)。しかし、その一方から他方を断罪するのは、じつはぜんぜん問題解決にならないのです。
2010-08-10 15:11:57いまの説明でも納得いただけませんか? 「哲学」という言葉にも幾重の用法があるのです。RT @kikumaco おそらくそうなのでしょうが、僕は哲学を知らないので、哲学とは文学ではないのだろうと思うわけです。したがって、それを読むモードはフィクションではなく科学のモードになりますよ
2010-08-10 15:13:10別の言葉で言い替えれば、<哲学を科学のモードで読む>という行為そのものが、20世紀以降においては哲学の一サブジャンルになってしまっているのです。したがって、哲学について真剣に考えるのであれば(別に考えなくてもいいですが)、その行為の歴史性を相対化する必要はある。
2010-08-10 15:15:13いや、納得というよりは、そういわれると理解はできますが、そういう哲学書をどういうスタンスで読めばいいかについては、途方に暮れます @hazuma
2010-08-10 15:15:50