- wish_mountain
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kensei 中学は厚木の田舎で、テニスやってました笑。東中野の付属高校に進学したんですが内部進学のクラスメイトはヴィトンのバックなど持ってたり、既にパーティなんかもやっているような奴らばっかりでした。そんな悪友に囲まれて、音楽の方面にのめり込むようになったんです。
2012-11-25 19:22:33kensei 最初のクラブはディスコの時代でした。ファッションなど、カルチャー的な要素は衝撃でしたが、最初はそこまでのめり込んでいた訳ではなかったんです。
2012-11-25 19:23:48kensei 高校時代は、六本木のいろんなハコを借りてパーティなんかをやっていました。パー券をさばいたり…僕はそこで、そういった社交的な要素よりも、音楽そのものに少しづつのめり込むようになりました。
2012-11-25 19:25:02kensei ディスコ全盛の時代、六本木の中心から少し離れたところに、アンダーグラウンドなクラブがあったんですが、そこが自分の場所だ!と思って、3日に1回くらいのペースで入り浸っていました。
2012-11-25 19:27:18kensei 先輩に夜中にあちこち回されたり、教えられるうちにDJを始めるようになっていきました。そんな感じで夜中遊んで、昼間高校行く、という生活でしたね。
2012-11-25 19:28:53kensei 渋谷の宮益坂にあったハコ。4台のターンテーブル、フロッピーのサンプラー、MIDI鍵盤など、いろんな機材があったんです。それらのプレイを初めて観たときは本当に衝撃でした。
2012-11-25 19:31:20kensei DJ yutakaさん http://t.co/KzsZZ2cl とのつながりがありました。当時遊びにいくと、オープンリールを使ってエディットをしている姿をよく見かけました。
2012-11-25 19:33:16kensei 当時作った音源をプレイします。サーカスというクラブがスポンサードして作られたアルバムで、実はAvexが一番最初に世に出したCDなんです。自分の中で封印してた音源なんで、ダサくて恥ずかしいのですが笑
2012-11-25 19:38:44kensei 元々日本語ラップは興味なかったんですが…95年くらいかな?高校時代のコミュニティのつながりがあったk-dub shineの活動を手伝うようになりました。そのあたりから日本語ラップにも関わりを持つようになってきました。
2012-11-25 19:47:15kensei 初めてお金をもらって働いた店では、DJをやってないときは照明をやったり、VHSビデオを流してVJみたいな事やったりしてました。当時の六本木のディスコって個性のある店が多かったですね。
2012-11-25 19:54:24kensei 当時は、黎明期ということもあって、今よりもクロスオーバーな空気はありました。ハウスとヒップホップが分かれていく前。
2012-11-25 19:58:52原 90年代初頭って、TCQの『Low end theory』がリリースされたり、洗練されたマナーのヒップホップがどんどん出てきた時代でした。 kensei 『Low end〜』はシドニー留学時代、毎日のようにスピンしていましたね。
2012-11-25 20:02:44原 『Low End〜』はロン・カーターのベースラインがフィーチャーされています。そうした生楽器の導入に関してはどうですか?
2012-11-25 20:04:22kensei 生楽器に興味を持つのは本当にずっと後の事です。サンプリングによるコラージュ感覚、プロダクションの方がまだまだ面白かった。雰囲気としての『ジャズ』。バンド経験がないだけに、オーセンティックなジャズは理解できなかった。
2012-11-25 20:05:43kensei もう少しあとになると、mo waxとかninja tuneあたりのUKのレーベルが、インストのビートなんかをがんがんリリースするようになる。僕もそうしたサウンドにはまっていきました。
2012-11-25 20:13:45kensei レコードプールの話をします。※レコードプールとは・・・世界のトップDJ達が日常的に愛用するレコード会社から公式にプロモーション用として配給されたプロ使用音源を提供するサービス。
2012-11-25 20:32:28kensei レコードプールのおかげで、レコード屋に売られていないもの、リリース前のものをいち早く現場でかける事ができる。それを目敏い人たちが素早くチェックしにきてくれて、情報交換の場として機能していました。ネット以前では、貴重なインフォメーションとして絵機能していた。
2012-11-25 20:34:53