- jonathanohn
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先日の中日文化センター講座「信長記を読む」の続き。禁裏御倉職立入宗継の記録『左京亮宗継入道隆佐記』に荒木攻めの記事あり、そのなかで、村重の妻「たし」(出し)について、異名が「今楊貴妃」だったとある。同時代ではお市の方はじめ名だたる美人いるも、美人度では最高の形容詞か。
2012-11-26 12:09:59続き)「今楊貴妃」の荒木村重夫人「たし」(出し)。京都六条河原で処刑される。太田牛一によれば、市中引き回しののち、車から下りると、帯を締め直し、髪を高々と結び直し、小袖の襟を押し退けて(首を斬られやすいようにという意か)従容と斬られたという。享年は24歳説と21歳説あり。
2012-11-26 12:12:56続き)荒木村重夫人「たし」(出し)の名前の由来を、『左京亮宗継入道隆佐記』に「城の大手のたしにをき申女房にて候故、名をはたし殿と申候」とある。「城の大手のたし(出し)」とは? と思って日国を見たら、この一節の引用あり。出城、出丸の意とあった。大手門の枡形曲輪のことか?
2012-11-26 12:20:14続き)荒木一族の六条河原での処刑までの市中引き回しルート。太田牛一によれば、上京一条辻から室町通りを南下し六条河原とある。石田三成らの事例とほぼ近いか? 上京一条といえば、六町あたりだろう。上京町人の界隈だ。三成らは板倉邸あたりからだったか。中村武生先生の専門だ。
2012-11-26 12:31:24@kanekoiroha そういう所伝もあるようなんですが、だしの姓が岩佐でないことから否定する人も多いようです。ただ、幼少時の又兵衛が本願寺にかくまわれているので、本願寺坊官の出とされるだしもしくはその近いところの人物の所生である可能性は低くないと思います。
2012-11-26 15:03:58@kanekoiroha よくキリシタンといわれますが、出自とか辞世の歌とか見るとそうでもないようですね。ともかく美人だったことは確かなようで……そういえば、村重と一緒に逃げた長男村次はだしの息子ではないようで(年齢的に無理がある)。
2012-11-26 15:36:53@kanekoiroha ウィキペ情報ですが本願寺の経理とかやっていた川那辺氏という説が強い、とのことですな。ただ村重の正室か側室かは不明のようで。文春新書の辻惟雄『岩佐又兵衛』では、完全に又兵衛の母親として扱っています。
2012-11-26 16:05:27@nonomaru116 なるほど。それなら、又兵衛の母親である可能性は低くないのか。又兵衛も美形だった可能性が微レ存?
2012-11-26 16:07:58@kanekoiroha 伝自画像見るとウーン、と…… まぁ晩年のものだから何ともいえないのですがw ただ、私の大学の同級生が、又兵衛は村重の子ではなく孫だ、という説を出していて、そうだとすると又兵衛はだし殿の血を引いていない可能性が高いです。
2012-11-26 16:12:24