- tekmacmayacom
- 15733
- 5
- 2
- 1
参ったな、今週の仕事の本筋から外れてしまった。檜垣立哉『子供の哲学』を読み始めて、この途方もない違和感をどうしたらいいものか困っている。生物的身体としての自分を考える哲学というのは、僕も共有するにしても、である。この違和感は後ほど考えてみたい。皆さんもぜひ読んでみてほしい。
2012-11-30 18:03:46〔産むことをめぐる倫理・社会・歴史・イデオロギー的問題を考えるにも、その〕前提として、身体とはもともと産むべきものとして「ある」と規定することが必要ではないかと、ここであえてのべたいのである。何故ならば、私とは産まれた存在でしかありえないのだから。(13)檜垣『子供の哲学』
2012-11-30 21:55:36この、万人が「産まれた身体」である以上ゆえに万人(性別に関わらず)「産む身体」である、という書き方は、大胆ですね。産む/産まないの様々に経験的なケースへの配慮記述はされてるけど、「存在論的に産むことを規範化」してるように見えると、とりあえずツッコミたい。
2012-11-30 21:59:22で、檜垣さんはまた、「子供」っていうのは、実子でも養子でもなくてよく、あらゆる他者、非人間さえもが子供でありうるという見方もしている。
2012-11-30 22:01:07「こうした「誰のものでもない生」を、身体の行為でつなぐこと、あるいはおおきな遺伝をつなぐこと、これが生殖なのではないか。そのような生殖するものとして、私のものではない「いのち」にかかわる一面として、「私」というものが描かれるのではないか」。檜垣立哉『子供の哲学』191
2012-11-30 22:02:12「現在において他者とつくりあげている社会的な関係やそこでの自己性は、「未来の他者」の存在をおりこまずしては、その意義を根本的に欠いてしまうのである。(…)生物学的な生殖性こそが、あらゆる人間の思考、あらゆる人間の倫理の前提にある」。檜垣立哉『子供の哲学』194
2012-11-30 22:02:46「〔バトラーらの〕ジェンダー論はここ〔=産む私、産まれる私という問題〕をつきぬけなければ、結局はポスト・コロニアルの思想とともに最後の近代主義=デカルト主義──自由な自己という幻想を守る思考──ではないかとおもえる(…)」檜垣立哉『子供の哲学』72
2012-11-30 22:04:50「そもそも子供と自己とは、同列的であってもよいし、さらにいえば、時間軸を逆転してもよいものではないか。過去の他者が私を殺しにくるとすれば、それだって私の子供と語ってもよいのではないか。ここで子供は、他者性のもっともきわだった形式になる」。檜垣立哉『子供の哲学』198
2012-11-30 22:06:37こういうアナクロニック(錯時的)な子供まで考えると、さっきの「人間の思考・倫理の意義を支える未来」としての子供っていう話は崩壊すると思う。このあたり、檜垣さんの真意がよく分からない。。。
2012-11-30 22:08:18どうでしょうね。檜垣さんの基本的な情調はやはりベルクソン主義だと思うんですね。その「持続」概念にレヴィナスらの他者論を噛ませ、「他性=非連続性を孕んだ持続」にして、それを今回は「いのち」=「おおきな遺伝」と呼ぶ。誰もがそこに参画しているってのが、僕には息苦しい議論だなと思われる。
2012-11-30 22:13:05万人が産む身体であり、性別も年齢も実際に産むか産まないかにかかわらず身体は「産むものだ」ということは、やはり「存在論的規範化」ではないかというものに対して。自分は「規範」としてこれを考えていないつもりなんだけど読み方によってはそう読めるだろうしRT@masayachiba
2012-12-03 00:09:49そう読むように挑発している部分もあります。しかしこの部分はあくまでも「産むべきだ」と個人に進めているわけでも、個人に命法としてあるというわけでもなく、「産まれた」ということの帰結としてしか自分の生物的身体は処理できないといいたいというのが主眼です。RT@masayachiba
2012-12-03 00:11:04本文中も書きましたが身体はまさしく正しい意味で「産む機械」なのであり、それは女性の身体のことでは「ありません」という意味で、動物性を引きうけ進化的な発端にあるこの身体そのものが、一種DG的な意味で「産む機械」であってよいし、その視点にたつ必要RT@masayachiba
2012-12-03 00:12:28があるだろ言うというのが個々で言いたいことです。DG的にいえば、産むのはそもそも主体でなく細胞なんですから主体でない細胞の増殖、細胞が増えることにある意味で付着する「私」ということで考えていかないと生殖の問題には立ち入れないと・RT@masayachiba
2012-12-03 00:13:33ただもちろん「お前は子供を産むべきだ」という、「きわめて人間的な」命法とこのいい方が結び付いてしまう「危険」(一種必然的な危険だとはわかっています。私も人間ですので)があるということを批判するために、焦点は「私」の「子供」という概念がそもそも殆どRT@masayachiba
2012-12-03 00:15:14がない、あるいは空疎な概念であるといういい方で、あくまでも「私の」ということの脱構築を試みたかったわけです。ここで千葉さんが、私自身のいっている、子供は自分の子供でなくてもよいし、自分より年上でもいいし、動物でもいいといういい方をした点を評価していただRT@masayachiba
2012-12-03 00:16:37いているのはありがたいのですが、私はそこから帰って身体というのは「産むおものである、何故なら産まれたのだから。そしてそれは何れにおいても「私」たるものとは関係ないかもしれない」という議論を生命論の根底として主張したかったとRT@masayachiba
2012-12-03 00:17:39無論自分の子供概念の脱構築ということをのべても、家族体制や封建的親子性、それこそオイディプス的概念というのは「相当程度に古層」であって、たんなる「近代資本主義的家長制」ではとらえられない深淵をもっていることは認めます。アンチオイディプスの困難さです。RT@masayachiba
2012-12-03 00:19:25だけど私はそこで、身体というのは「産むものである」がそれは「私性」と切り離すべきだという主張は、やっぱり近代的所有概念や近代的家族概念と、生物としてある私というものをどこかで切り離して考えないと巧くいかないとおもっいるので、この方向で押せないかと思ってRT@masayachiba
2012-12-03 00:21:05いる次第です。ただそれでも「身体は産むものだ」というものが規範化されることについては、こういうことをいうと大量のひとから怒られるし馬鹿にされるけど、やはり「テクネー」が愛のかたちを変えるということに賭けるしかない。現状どう述べても出産が女性の子宮を経由RT@masayachiba
2012-12-03 00:22:24しなければできないことに対して、そうでないあり方、そうでない増殖、そうでないサイボーグ化というのは、ジェンダー論やクィア論、障害論そのほかを考えていくうえでやっぱり大切だろうとおもっているわけです。もちろんそんなに楽観的でもないですし困難だし文句いわれRT@masayachiba
2012-12-03 00:23:38@kumatarouguma 切り返しを始めてみます。たしかに、私たちの身体は全員「産まれた」。そして「産めるようになっている」が、それを、子供を「つくるべくしてつくられた」(73)というふうに「べき」という必然性と規範性が両義的な表現で言うのはいかがものかと思いました。
2012-12-03 00:24:46のはわかりますが、逆にこの点は、こっちとしては千葉さんのクィアとか、ジェンダー論とか、それがどんどん先にすすんでいてさまざまな実験的契機にはいっていることにむしろ期待をかけている側面があります。巧くいえないですみませんそれゆえ千葉さんの違和感はわかるがRT@masayachiba
2012-12-03 00:24:48