細川家の諸々

個人的メモ(出典は綿考輯録とか松井先祖由来附)
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松井さん家

はしょ @hassyo

「自得院育置候竹田梅松軒女を嫁娶仕せ、」 ……?!

2012-11-25 23:15:14
はしょ @hassyo

自得院が竹田梅松軒の娘を育てた、その育てられた娘を松井が井上之勝に嫁がせた。

2012-11-25 23:22:57
はしょ @hassyo

竹田はもともと幕臣の武田氏で、武田侍従定栄瑞竹軒が山城国竹田郷を治めていたが、嫡子の竹田織部正定雄のときに永禄の変が起こり、梅松軒と名乗りを変えて羽柴秀吉に仕え始める。梅松軒の正室は自得院の姉であったため、嫡子竹田藤松は丹後久美の城で康之に養育されて成長した?

2012-11-25 23:25:40
はしょ @hassyo

藤松は松井の称号を許され、松井長助定勝と名乗る。梅松軒は家督を二男の竹田源助長勝に任せて、豊臣秀吉に仕え、大阪の陣で三男竹田永翁と共に、豊臣秀頼に殉じ切腹して果てた。 よーしさっぱりわからん!

2012-11-25 23:26:44
はしょ @hassyo

竹田永翁って大坂の陣で果てたのか……知らなかった……このひとが前田玄以とともにこっそり「石田三成が五奉行の連名をして細川を潰そうとしているよ気をつけて!」って秀次事変のときに教えてくれたんだよねえ……ほんと三成余計なことしかしねえ……

2012-11-25 23:28:25
はしょ @hassyo

いや違う竹田家を整理したかったのではなく! つまり自得院(自分の手元)で育てた娘(でも別に家臣ではなくただ妻の姪)を嫁がせて、禄を与えて、過労になったのが井上(松井)市正之勝ということだ。ちなみにこのひとは元幕臣で管領細川家の幕下に属していた。

2012-11-25 23:32:52
はしょ @hassyo

「興長公父松井佐渡守康之儀は、兼々松井の苗字迄を被成御呼、御書の御当所も御同前ニて、自他共多は苗字を唱候由ニ御座候」を誰か訳してくれ……

2012-11-25 23:37:29

簡単に言えば「佐渡守」という名乗りではなく「松井」とよく名乗っていた(御当所とは興長のことかと思われる)ということらしい。

はしょ @hassyo

あたし世をさこそ恨め たらちをの別れハよその袖さへもうき

2012-11-25 22:51:29
はしょ @hassyo

おほけなき恵ミの玉のことのはに いとゝ袂の露そほしゑぬ

2012-11-25 22:51:50
はしょ @hassyo

「あたし世をさこそ恨め たらちをの別れハよその袖さへもうき」は忠興が、「おほけなき恵ミの玉のことのはに いとゝ袂の露そほしゑぬ」は興長(これは返歌だが)が、康之が亡くなったときに詠んだ歌です。

2012-11-25 23:07:05

それぞれ「(よその家の)私でさえ袖を濡らすほど(かなしい)なのだから、お前はどれほどだろうか」「もったいないお言葉を頂戴して、ただでさえ乾かない袖がなおさら乾きません」みたいな意味のよう。

はしょ @hassyo

「寛永九年肥後御入国以後、葉屋も御跡を慕ひ被参候、寛永十年(一ニ十一年)三斎君八代古麓村ニ泰巌寺御建立、即葉屋持也、当郡今村野津村にて、弐百石の寺領御寄附被成候、然るに延宝三年五月雷火ニ而焼失、及中絶候、其後綱利君、北小路宗雲寺明跡に泰巌寺御再興、寺領もとのことく其外御茶湯米六石

2012-12-07 22:32:36
はしょ @hassyo

作事料銀十枚御寄附、信長公・三斎君の木像をも安置今に有之候、是最初泰勝院を此所に被引移置候得共、熊本に泰勝院有之候事故、御逝去以後正保三年停廃、其跡に長岡興長荷沢山宗雲寺を建立、是康之か父広之法名を清月宗雲といへる故也(丹後ニ而も康之宗雲寺を建置候、一ニ寄之菩提寺とあるは誤也)

2012-12-07 22:39:19
はしょ @hassyo

然るを筑後直之依頼、古麓元の泰巌寺焼跡に熊本子養(イ子飼)より春光院を移し、江東山春光寺と号し、松井代々の菩提寺といたし、金長老開山也(一ニ正岩瑞長老開山共有)、綱利より寺領山林等御寄附之御印証」(『綿考輯録』第二巻(巻十)八十一頁)

2012-12-07 22:43:01
はしょ @hassyo

葉屋というのは和尚の名前のようだなー忠利くんが寄せたのか。ふむ

2012-12-07 22:51:42

ここに載せるかは微妙だけど、正之さまの法名由来という主張がしたいのでここに置く。

はしょ @hassyo

「如水の陣所實相寺山へ松井佐渡、有吉四郎右衛門来りたり。其座には黒田の家老列座す。松井申けるは、扨も此度の合戦に井上九郎右衛門手柄、兼て承たるよりも增りて目をおどろかし候。又九郎右衛門敵と戰の内、茜のしなひの指物さしたる武者、其手勢を引率し、眞丸(まんまる)に成て横合に懸りたる働

2013-01-12 20:55:43
はしょ @hassyo

神妙の至、中々申もおろかに候。又其勢の内に大指物さしたる武者、殊によき働にて、目に立候由申ければ、如水聞て、茜のしなひの指物とは、其末座にある野村市右衛門なるべきとて指ざし給ひ、彼は母里太兵衛が甥にて候。(中略)松井有吉退出の後、如水家臣にむかつて、のたまひけるは、

2013-01-12 20:58:59
はしょ @hassyo

武士戰場にのぞみ、我が戰功を専一に心がくる者は、左右前後身方の働は委細に見るに隙なきものなり。たとひ見及びたりとも、人に向て語るに其意得(こゝろゑ)有べし。松井が一昨日石垣原にて見及びたりし只今の物語は、あまり詳過たり。一分の働に心かけざるやうに聞えてあしヽ。

2013-01-12 21:01:53
はしょ @hassyo

有吉は其意得ありしにや、側の働の噂はせざりしなり。是武士の心得べき事也とぞのたまひける。」(益軒全集巻之五、黒田家譜巻之十三、三六四頁)

2013-01-12 21:03:20
はしょ @hassyo

つまり「あいつ周りばっか見てねえで戦功あげることに集中しろよ。しかも見たとしても語るものじゃないし、有吉はその点よくわかってるよね~あれが武士の心得だよ」ってことですよね激しい衝撃がわたしを襲う

2013-01-12 21:04:34