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榊原小平太康政 @sakaki_koheita
さてと希望があったで、ちと兄の旧主である岡崎三郎君の話を。一般的には松平信康公だな。嫡子であられるので、徳川信康公でもかまわないんだが。
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
三郎君はまだ殿が駿府におられた頃に生まれた、徳川家のご長男だ。母はご存じのとおり瀬名姫、築山御前だな。殿が桶狭間の戦の後、駿府に戻られずに岡崎にとどまったので、一時立場は危うくなられたりもした。
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
ま、それは上ノ郷城の鵜殿殿との交換に成功し、石川伯耆殿が岡崎に無事連れておいでになった… 長女の亀姫と瀬名姫もご一緒に。その後、瀬名姫は岡崎城外の築山の地に住まわれることとなったので、築山御前と呼ばれる。
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
永禄五年、清洲同盟が成立し、織田家から徳姫を三郎君の正室として迎えることとなった。ともに九歳のご夫婦だ。この時からわしの兄は平岩主計殿と供に傅役としてお側に仕えておる。また同時に殿は浜松へ居城を移された。
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
あ、ちょっと表記がまずかったがご婚礼は永禄十年だな。三郎君の諱の信康という名、これは信は信長公よりの偏諱、康は清康公からの松平の通字になる。
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
三郎君と徳姫のご夫婦は岡崎城、築山御前は岡崎ではあるもののお住まいは城外、また岡崎城には殿の母君であられる於大の方様と久松殿も住まわれた。よく徳姫と築山御前の関係が悪かった的な読み物があるが、そう単純な関係ではないな。
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
殿は今川・武田との前線に近い浜松におられたが、当時の岡崎というのは場所こそ離れているが、徳川家の奥向きだということができる。奥方や子供達、母君を安全な場所に置いた……のは、実際はちと失敗だったのかもしれないが。
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
基本的に三河者は傅役も厳しい教育をする。例に漏れず、こちらに来てからは三郎君もだいぶすぱるたで育てられたようだが……ちと我が強い性格だったとはいよれておるな。ま、それは殿もそういうところはあるし、祖父の清康公もそうだから仕方が無い。
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
三郎君は鷹狩りがお好きでな。まさに武士の子というところだが、舞や歌もお好きだったと聞く。小姓の永井万千代は太鼓が上手かったので気に入られたというしな。
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
三郎君と徳姫の間には、姫がふたり、お生まれになった。夫婦仲は当初悪くなかったが、男子が生まれなかったことや三郎君が側室をとられたこともあり、次第に不仲になったという。ま、どちらも気の強い性格をしておられたのでな……
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
徳姫が父信長公にあてて、12箇条の手紙を書いたといわれるが、これはわしは少々疑っておる……ま、彦左の書いたことだからな。この手紙は現存しておらぬので、真偽の程は不明だ。
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
別件で織田家に向かった左衛門尉殿がその手紙を届け、信長公に内容に間違いがないか詰問されたが、反論できなかったという。……このあたりは若干記録によって異なる面もあるが、大筋はこんなところだ。
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
しかし、一般に信長公が三郎君の切腹を命じたというが、それは厳密には間違いだ。信長公は良いようにせよというような事をおっしゃったと聞いている。ただまぁ、言葉はそうでも、それが強い圧力になったのは事実だな。同盟といってもこちらの立場は弱かった。
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
さて、岡崎及び三河周辺のとりまとめは、この頃石川伯耆殿が請け負っておられた。西三河衆は石川伯耆殿、東三河衆が酒井左衛門尉殿。しかし岡崎には前述のとおり、於大の方様がおられた。そして刈谷にはその兄の水野信元殿。水野殿はこの頃三河の支配にも食い込んでおられた。
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
つまり、西三河は大きな戦こそなかったが、政治的には織田・水野・松平の間の国境線がいまだ定まらぬ、別の戦いの中にあったともいえる。水野殿は織田家中の者として認識されておると思うが、刈谷から知多半島にかけて勢力を持っており、これはほぼ独立領主として扱われていた。
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
水野殿は松平家とは血縁だし、そもそも織田家との同盟をとりもってくださった方だ。だが……かつて今川に組したことも、美濃の斎藤家と通じておったこともある。信長公が水野を全面的に信頼していないのは明らかだった。
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
また、長篠の戦の前、徳川は織田家に援軍を頼んだ。しかし返答は遅く、また三方原の時のように申し訳程度の援軍しか来ないのであれば話にならないということで、政治的駆け引きとして、援軍をよこさないなら同盟を破棄する覚悟があると伝え事もある。
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
破られることはなかった清洲同盟だが、情勢によってはそうならなかったこともありえた。信長公が西にさらに進出し、天下に号するためには、足下を固め、背後の憂いを無くす必要がある。
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
徳川は名目上同盟相手だが、はっきりと臣下としなければならなかったといえる。この同盟内での力関係、間に水野家もはさんだ軋轢が、三郎君のご生害となった、というのがわしの見方だ。
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
あとだな、家が下手をするとつぶされるかもしれないが、自分が死ねば助かるという場合、腹を切るしかないんだよ。武士というのはな。三郎君はそのことをよくわかっておられたと思う。
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
水野信元殿が斬られたのが天正三年。これに抗議する於大の方さまは岡崎城を出られた。そして三郎君のご生害が天正七年。もし於大の方さまが岡崎におられたら、ご夫婦の仲はどうなっていただろうな。
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
……というわけで、今の世においても不明点の多い三郎君の切腹について、推測含めて語ってみたわけだが。研究者の方には、殿と三郎君の間に対立があったのではないかと言われる方もおるようだな。
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
興味があるものは調べてみてくれ。今回はわしが言った事も必ずしも正しいとは限らんでな。
さーや @llsaayall
@sakaki_koheita お話ありがとうございました!!嫡男としての責務をがっつり果たしていかれたという事なのでしょうか(/ _ ; )
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
@llsaayall わしはそう思っとるよ。家中にとっては、本当に残念な事だったが。
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