八重ちゃんが語る斎藤一あれこれ

会津のおてんば娘☆山本八重ちゃんが斎藤一について語ってるのが興味深くて(細かいところは後で編集します)
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山本八重さん🌸 @aizu_sniper_yae

今夜は新選組・斎藤一さまの話。 会津時代は山口二郎で通してました。 戊辰戦争後の上越高田の頃には一ノ瀬伝八…それが転じて一戸伝八となりました。 斗南に移った先で時尾ちゃんと結婚、ここで松平容保公から藤田五郎の名前をいただいております。 改名時期は諸説あるけど大体こんな感じです。

2012-12-19 20:17:39
山本八重さん🌸 @aizu_sniper_yae

あ、時尾ちゃんは私の近所に住む幼馴染みです。 戊辰戦争の籠城時に私の髪を短く切ってくれました。 手先が器用な子で、裁縫とか教えてもらってました。

2012-12-19 20:21:28
山本八重さん🌸 @aizu_sniper_yae

山口二郎では分かりにくいかもしれないので、ここでは斎藤一さまで統一しときます。 まず、斎藤さまは幕末会津における戦闘指揮官ではトップクラスの統率力を持っていたものと思われます。 かなり理知的で戦術面での柔軟さが見られるからです。

2012-12-19 20:23:45
山本八重さん🌸 @aizu_sniper_yae

会津時代の斎藤さまは、宇都宮で土方さまが負傷して療養の必要があったために新選組局長代理として会津藩兵とともに白河に進軍して新政府軍を迎え撃っています。 最初は地の利を活かして敵をぬかるみに誘い込んだり伏兵を成功させたり結構な戦果をあげています。

2012-12-19 20:30:10
山本八重さん🌸 @aizu_sniper_yae

頼母さまからすれば総石垣造りで奥州三名城にも数えられた小峰城で堅守するおつもりだったのでしょうけど、時代は大砲と新式銃の戦いになっています。 城は的にしかならない…野戦で粘り強くゲリラ戦術したほうが良いと斎藤さまは献策しましたが、結局聞き入れられませんでした。

2012-12-19 20:36:46
山本八重さん🌸 @aizu_sniper_yae

案の定、小峰城は新政府軍の圧倒的火力の前に太刀打ちできず三重櫓など殆どが焼失…、旧幕府軍は撤退せざるを得ませんでした。 旧幕府軍2500vs新政府軍700で敗北したんです。 その後2ヶ月半に渡って小峰城奪還を狙いますがすべて返り討ちにあっています。

2012-12-19 20:42:42
山本八重さん🌸 @aizu_sniper_yae

その後は復帰した土方さまが新選組の指揮を執っていますが、その土方さまも新政府軍が猪苗代を突破して会津盆地に侵入したことを知って北へ転進することを決心します。 このとき斎藤さまは新選組が会津から受けた恩義に基づいて最期まで命運を共にする覚悟で土方さまと別れ、会津に残ったんです。

2012-12-19 20:53:04
山本八重さん🌸 @aizu_sniper_yae

斎藤さまと土方さまが別れたのは北塩原村の大塩付近とされます。 今生の別れでした。 猪苗代で会津藩を破った新政府軍の進軍速度は異常な速さでして、新選組にとっては大きな誤算でした。 新選組も白虎隊も迂回しながら会津に向かったとはいえ、途中で新政府軍に追い抜かれてしまったんです。

2012-12-19 20:59:57
山本八重さん🌸 @aizu_sniper_yae

新選組が会津に戻ったときには城下に新政府軍が侵入しており各地に火が放たれていました。 白虎隊はこの火勢を見て落城したものと思い込んでしまったんです…。 一方、斎藤さまは塩川方面から遊撃を開始し、会津北部を転戦しました。 そして会津での新選組最後の戦闘「如来堂の戦い」に…。

2012-12-19 21:05:05
山本八重さん🌸 @aizu_sniper_yae

私が斎藤さまのことを卓越した戦闘指揮官だと思うのは如来堂の戦いで包囲網を突破した点です。 借り物の図面ですがこれは神指城跡地で左上(南西)が如来堂一帯です。 ここで斎藤さまは20~30人程度の隊士を率いて陣を張りました。 http://t.co/QUf3225b

2012-12-19 21:09:59
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山本八重さん🌸 @aizu_sniper_yae

神指城・如来堂を訪れた人ならご存知かと思いますが元々は上杉氏時代に直江兼続公が築こうとした城で、本丸の盛り土以外には四方の角の盛り土しか残っていません。 堀もありません。 そこに陣を張ったのは小高い丘から周辺が見渡せる立地と田畑と湿地でぬかるむ地理条件と思われます。

2012-12-19 21:15:00
山本八重さん🌸 @aizu_sniper_yae

如来堂から北に3kmあまりの高久村で会津藩が戦闘を開始したという情報を聞いて斎藤さまは援兵を送り出しましたが、その動きを察知して新選組の居所を掴んだ新政府軍は如来堂を包囲します。 このとき新選組20名余り、新政府軍は100名とか300名とか言われています。

2012-12-19 21:18:07
山本八重さん🌸 @aizu_sniper_yae

絶望的な戦力差でしたが装備で劣るはずの新選組は斎藤さまの指揮の下で数時間抵抗し、13名の犠牲者を出しながらも脱出に成功しました。 その経路は先ほどの図面の左上…阿賀川を渡って北会津へ抜けたんです。 現在のように整備されていない時代ですので阿賀川の流れは厳しかったと思います。

2012-12-19 21:23:01
山本八重さん🌸 @aizu_sniper_yae

これは会津若松市文化課のある方の見解ですが、神指城の南西部は元々洪水で基部が失われたのではなく阿賀川への経路のために何かが築かれる途中だったのではないかという説があります。 ですので斎藤さまはその地の利を活かして包囲網から脱出したのではないか、と。

2012-12-19 21:27:44
山本八重さん🌸 @aizu_sniper_yae

斎藤さまは結果的に戦力差5倍から15倍以上の敵を相手に数時間の足止めに成功して高久村の会津軍を救ったことになります。 全滅を免れただけでもかなりの指揮能力ではないでしょうか?

2012-12-19 21:30:59
山本八重さん🌸 @aizu_sniper_yae

如来堂から脱出した新選組は20日後に会津藩が降伏するまで戦い抜いています。 降伏後、斎藤さまは謹慎を命じられて最初は塩川、その後に越後の上越高田に預けられて冬を越します。 この時他の多くの会津藩士が冬を越せずに亡くなりました。この頃の 斎藤さまは会津藩士として謹慎を受けたんです。

2012-12-19 21:36:16
山本八重さん🌸 @aizu_sniper_yae

やがて会津藩復興の地・斗南へ移って藤田五郎に改名。 明治7年に廃藩置県で斗南藩が消滅すると東京に移住しました。 会津藩の猛将・佐川官兵衛さまの警視庁出向と同時期ですね。 西南戦争でも佐川さまと共に豊後口に配属されてます。 最後まで新選組と会津を背負った侍、それが斎藤一さまです。

2012-12-19 21:45:02
山本八重さん🌸 @aizu_sniper_yae

斎藤さまは会津若松市七日町の阿弥陀寺にて、戊辰戦争で亡くなった1300名の戦友とともに眠ってらっしゃいます。 http://t.co/UtdOLCmG

2012-12-19 21:55:15
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山本八重さん🌸 @aizu_sniper_yae

そういえば斎藤一さまは肖像画とされる絵が残ってるんですけど、あれは斎藤さまと時尾ちゃんの長男・勉を元に描いた想像画なんです。 伝わっている内容では眼光鋭く厳つい顔、背が高めだったそうです。 左利きだったかどうかは謎…

2012-12-19 22:44:13
山本八重さん🌸 @aizu_sniper_yae

斎藤さまと結婚した時尾ちゃんですが、気立ての良い美人さんです。 時尾ちゃんのお母さまも美人で有名だったんですよ。 裁縫も器用だし字も綺麗。 戦後、新政府から埋葬禁止された会津藩の戦死者を埋葬するのに尽力した芯の強さも持ってます。 結婚した斎藤さまは周りから羨ましがられたかも?

2012-12-19 23:01:20
山本八重さん🌸 @aizu_sniper_yae

斎藤さまと時尾ちゃんの長男・藤田勉は新選組三番隊長の子ということで士道を叩き込まれてます。 軍人として出世したんですが、子育てでは自分の子を物陰から見て隙を伺ってて、油断してたら「士道不覚悟!」と竹刀で打ち込んできたという逸話が残っています。 さすが斎藤一さまの子w

2012-12-19 23:05:17
山本八重さん🌸 @aizu_sniper_yae

藤田勉の愛刀は南紀重国という刀で、これは元々は会津藩家老・萱野権兵衛さまの愛刀でした。 戦争責任で切腹なさった溝口派一刀流伝承者・萱野さまの形見の品です。 明治になって松平家から賜ったものですが、太平洋戦争後に米軍に一時お預けとなって戻ってこなかったそうな。 今どこにあるのかな…

2012-12-19 23:10:52
山本八重さん🌸 @aizu_sniper_yae

先ほど南紀重国の話、その入手には藤田五郎こと斎藤一さまが所有していた名刀・会津虎徹が関わっています。 容保公の孫・勢津子さまが皇族・秩父宮家に嫁ぐ時に松平家は会津虎徹を持たせようとしたんですが、大刀だけで小刀が無かった…そこで藤田家が差し上げたことで大小が揃って晴れて贈り物に。

2012-12-19 23:22:14
山本八重さん🌸 @aizu_sniper_yae

松平家では虎徹を貰ったお礼として先ほどの南紀重国をあげたんです。 ここで気になるのは、何故藤田家に会津虎徹があったのかという点。 会津虎徹こと三善長道は明治に入ってからは作刀ほとんどしてないし…。 近藤勇さまが会津虎徹を気に入って何振りか持ってたという話があるので、もしかして…?

2012-12-19 23:28:18
山本八重さん🌸 @aizu_sniper_yae

今の神指城は盛り土しか残ってないんだけど、これは江戸時代に加藤明成という殿様が石垣を持ち去って鶴ヶ城の修築に使っちゃったからです。 明成の父・嘉明までの会津の君主はみんな石垣を残しておいたのに… http://t.co/plgK0nFT

2012-12-19 23:31:55
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