ポルシェ博士による自分語り(?)
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ポルシェ博士は1875年に、当時オーストリア ハンガリー帝国の領土であったボヘミア(現在のチェコ)で生まれました。
2012-12-27 23:50:03父は飾り職人(建物の一部となる金属製アクセサリーを作る職人)で、博士も最初、その後を継ぐための修行をしていましたが、新しい機械/電気工学に対する興味を抑えがたく、父の許しをもらって、首都のウィーンに出て仕事に就きながら勉強をすることにしました。
2012-12-27 23:50:16そのウィーンでフェルディナンド ポルシェが就職したのが、ヤコブ ローナー社という、馬車のコーチビルドをしていた会社です。そこで働きながら、博士はウィーン大学工学部などで聴講生となって、機械工学や電気工学を学んでいたといいます。
2012-12-27 23:51:22若きフェルディナンド ポルシェは、そのローナー社で早くも頭角を顕す仕事をしています。それは、1900年のパリ万国博覧会に出品した電気自動車の「ローナー ポルシェ」で、前輪ハブにモーターを内蔵するという革新的な構造を持ったこのクルマは、博覧会の観衆から大きな注目を浴びました。
2012-12-27 23:51:56それにより、設計者であるポルシェ博士の名前は広く知られるようになりました。 その結果1906年に、当時、オーストリア ハンガリー帝国内では唯一の本格的自動車メーカーだったアウストロ ダイムラー社から、設計主任という重要な役職で招かれることになります。
2012-12-27 23:52:26そのアウストロ ダイムラー社でも、第一次大戦前にオーストリア国内でベストセラーになった小型車の「マヤ」や、タルガフローリオなどの国際レースで活躍した「サッシャ」などを世に送り出したポルシェ博士の名声は、さらに高いものになっていました。
2012-12-27 23:52:38それで1923年に、今度は、シュツットガルトに本拠を置くドイツの名門メーカー、ダイムラー モトーレン社(現在のダイムラー社)から設計主任として招聘を受けることになったのです。
2012-12-27 23:52:47ダイムラー モトーレン社での博士のもっとも大きな実績は、機械式のスーパーチャージャーを装着した高性能モデルの開発でしょう。
2012-12-27 23:53:14博士が設計したメルセデスS、SS、SSKといったスポーツモデルは、有名なミレミリアでドイツ車として初優勝するなど、国際レースで大活躍して、第一次大戦後の復興期にあったドイツ国民に大いなる勇気を与えました。
2012-12-27 23:53:33そのとき博士の下には、アウストロ ダイムラーやダイムラー モトーレン社で一緒に働いた部下や、ロバート ボッシュ(現在のボッシュ社の創立者)の下で修行をした当時まだ21歳の息子のフェリーなど、10名ほどのスタッフが馳せ参じていました。
2012-12-27 23:54:17すでに55歳になっていた博士は、独立事務所という自由な環境の下で、自動車メーカーの一員としては果たせなかった「夢へのチャレンジ」を行おうとしていました。
2012-12-27 23:54:29ポルシェ博士は、自動車エンジニアとして、生涯のうちに果たすべき2つの目標を持っていました。ひとつは、世界最速の高性能レーシングカーの開発であり、もうひとつは、万人にとって実用的な小型経済車を世に送り出すことです。
2012-12-27 23:54:39そのうち、高性能スポーツカーに関しては、ダイムラー モトーレン社在籍中に、すでに大きな実績を残していました。独立して設計事務所を開設してからも、その分野で名声を確立したポルシェ博士のもとには、様々なメーカーからレースカーの設計依頼が舞い込みます。
2012-12-27 23:54:52その成果は、この後、アウトウニオンのために設計して、1934年から38年にかけて、ヨーロッパのグランプリレースを席巻することになるPワーゲン(V型16気筒エンジンをリヤミドシップに積んだモンスターレースマシン)などの成果を生み出しました。
2012-12-27 23:54:59しかし、もうひとつの「万人のための小型経済車」の実現は、ずっと難問でした。じつは、ポルシェ博士がアウストロ ダイムラー社やダイムラー モトーレン社を離れることになったのも、小型経済車の開発を主張するポルシェ博士の意見が、経営陣に受け入れられなかったからです。
2012-12-27 23:55:1019世紀末に、カール ベンツやゴットリープ ダイムラーらによって栄えある自動車の「発明国」となったドイツですが、自動車の普及では新興国のアメリカに大きく遅れをとり、ヨーロッパ諸国のなかでもイギリスやフランスの後塵を拝していました。
2012-12-27 23:55:40そんな状況下、無理して利幅の少ない小型車を作っても買い手がいないと、主要な自動車メーカーはどこも二の足を踏んでいました。
2012-12-27 23:55:50独立して設計事務所を開いてからも、小型車の設計をポルシェ博士に打診してきたのは、既存の大メーカーではなく、これから自動車の分野に参入しようとしていた新興メーカーでした。
2012-12-27 23:56:06ポルシェ博士は、1931年から33年にかけて、2輪メーカーのツェンダップ社とNSU社の依頼をうけて、それぞれの会社のために小型車を試作しています。いずれもリヤエンジンを採用するなど、基本設計は後のビートルに似たものになっていました。
2012-12-27 23:56:15しかし、世界大恐慌後の経済混乱のなかで、NSUもツェンダップもそれらを量産に移す決断ができず、いずれもプロジェクトは中断してしまいます。
2012-12-27 23:56:23