アートシーン(2013年上半期)

2013年1月から6月までの、展覧会その他美術に関するツイストを集約。
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sjo k. @sjo_k

国立西洋美術館の「手の痕跡」へ。なぜ私は(とりわけ人間をモチーフにした)彫像に惹かれることがほとんどないのだろう、と考える機会になった。ぼんやり思ったのは、「理想化された人間の形」にあまり魅力を感じないこと、ブロンズや大理石の素材感と本物の人間の質感の齟齬に違和感を覚えること。

2013-01-08 21:25:30
sjo k. @sjo_k

国立西洋には初めて行ったが、常設展は印象的だった。正直なところ、趣味に合わない作品がほとんどなのだが、全体を通して見ていくと、人間の精神の発展、というか、振幅、あるいは蛇行の運動の軌跡を見せつけられ、圧倒される。一方で、人間の能力はこの4世紀変わっていないのではないかとの思いも。

2013-01-08 21:25:35
sjo k. @sjo_k

普段なら、ルノワールやモネの絵に惹かれることはまずない(まさに「趣味に合わない」)のだが、歴史の流れの中に置かれると、ああ、これはやっぱり人間精神の突端から生み出された表現に相違ないのだ、と感じる。とりわけ、モネの大型の睡蓮が放つ、ほとんど「妖しい」と言う他ない雰囲気に打たれた。

2013-01-08 21:25:51
sjo k. @sjo_k

それから、これまでは外観だけ見て、あんまり面白くないなあ、と思っていた建物が、中に入ってみたらたいそう面白かった。ある種のリズムを感じさせるような空間取りに、精神を飛躍させられるような思いがした。(ただ、それによって、作品の鑑賞に必要な別の精神力を阻害される、という気もしたが)

2013-01-08 21:26:00
sjo k. @sjo_k

トーキョーワンダーサイト本郷の第7回展覧会企画公募へも。「But Fresh」が豊作。電車の中で勝手にCAのワゴンサービスをするタニシK、新宿の水溜りの水を口で吸って楢葉に移動させる丹羽良徳、ドナルドマクドナルドとカーネルサンダースに扮しハンバーガーとチキンを喰わせ合う泉太郎。

2013-01-08 21:26:45
sjo k. @sjo_k

こう書くと「なんだそりゃ」という感じなのだが、実際に見ても「なんだこりゃ」ではあった(笑 それぞれ独創的で鋭くて、これもやはり「人間精神の突端」だな、と思わされる。ただし、どこか「あともう一声!」感があったのも事実。ギリギリで「(単なる)オモシロ」に見えてしまった、というか。

2013-01-08 21:27:18
sjo k. @sjo_k

それにしても、今こうして冷静に振り返ると、国立西洋とTWS本郷っていうのは、大まかに言って、「美術界」のほぼ両極に位置してるんじゃないか? …というわけで、美術愛好家のみなさん、人間精神の突端に触れ、その無限の可能性に思いを巡らせたいのならば、このコース、絶対オススメですよ!(笑

2013-01-08 21:28:19
sjo k. @sjo_k

東郷青児美術館の「フィナーレ選抜奨励展」へ。調べずに行ったのが悪かったのだが、天敵の「ギャラリートーク」中で、まったく集中できず。そんな最悪の状況下でも、開光市・杉本克哉・小野さおりの作品は、ぎりぎり「届いた」。だがいずれにせよ、もう一回行ってちゃんと見直さなくてはなるまい。

2013-01-12 20:52:57
sjo k. @sjo_k

国立新美術館の「DOMANI・明日展2013」へ。既視感の強さばかり感じる展示だった。いや実際、二回三回と見たことのある作家が何人かいた(はずな)のだが、それにしても、企画全体に対してまで覚えるこの既視感は何だったのだろう。シンプルに言ってしまえば、「平凡」だった、ということか。

2013-01-14 22:09:21
sjo k. @sjo_k

というわけで、強く引かれる作品はほとんどなかったのだが、そんな中で「ひっかかり」を覚えた橋爪彩/小尾修の油絵と糸井潤の写真を観比べながら、<写実(性の高い)絵画と写真の関係>という、ここのところかなりの頻度で思考の俎上に乗せられている問題について、あらためて考えることになった。

2013-01-14 22:09:32
sjo k. @sjo_k

現代写実の「現代」性は、高度に発達した写真術の存在という対他的文脈の中にこそあるという気がする。すなわち現代において、作家は(写真術があるにもかかわらず)なぜ「写実する」のか、と、鑑賞者はこれがなぜこの(写真術ではない)手法で創られなければならなかったのか、と問わずにいられない。

2013-01-14 22:09:45
sjo k. @sjo_k

作品が生み出されるプロセスは、両者で決定的に違う。写真は「一瞬で決まる」。一方、絵画は長い時間をかけて描かれる。そのため、写真は、創造のための思想や被写体との関係を事前に準備しなければならない。一方、絵画は、創造の過程において思想を練り上げ、関係を構築していくことができる。

2013-01-14 22:10:12
sjo k. @sjo_k

だから写実絵画の場合、作り手側は「写実する」ことの理由や意味について、恐ろしいほどの思索を重ねている場合が多いのだが、観る側がそんな「重さ」を抱えて作品に臨むことはまずないだろう。したがって、「出会う瞬間からの不均衡」というのが、写実絵画の宿命とも言うべき性質なのではないか。

2013-01-14 22:10:24
sjo k. @sjo_k

しかしそれでも、目の前にある作品のみから、作家の思索がのしかかってくるように感じることがある。それは、作家の思索が作品(と私)に浸み出すほど圧倒的な強度だったからなのかもしれないし、偶然私の感覚や(作家のそれよりは恥ずかしいほど少ない)思索に合致したからなのかもしれない。

2013-01-14 22:10:34
sjo k. @sjo_k

ともあれ、写実絵画の「出会う瞬間からの不均衡」は、作品との対峙を通して均衡の方向に傾きうる(「完全な均衡」が可能なのかはわからない)。それがすべてだ、など言うつもりはないが、写実絵画を観ることの愉しさは、この均衡に向かう運動を感得することにあるのではないか、と(今日は)思った。

2013-01-14 22:10:42
sjo k. @sjo_k

写真の側の話は、今日はなし(思考力の限界)。しかし、作品単位で言うと今日一番時間をかけて観させられたのは、フィンランドの蒼い夜景を撮った糸井潤の写真であった。「写真みたいな絵みたいな写真」https://t.co/vCtFzkkj に関する思考の糸口がつかめそうな気もしたのだが。

2013-01-14 22:10:52
sjo k. @sjo_k

東京都写真美術館の「北井一夫 いつか見た風景」「この世界とわたしのどこか」「記録は可能か。」へ(全展最終日にすべりこみ)。それぞれがそれぞれに違う個性をもった佳展だった、のだが、全体を通して、〈人間の共感/観力〉の脆さや限界、という問題について考えさせられ、かなりしんどかった。

2013-01-27 22:15:50
sjo k. @sjo_k

北井展の6、70年代の寒村の人々を写したシリーズを見ていて、そこに映っている子供たちが、実は私とそう年齢が離れておらず、おそらく今でもどこかで暮らしているのだ、と気付いた時に、ハッとなった。今の彼/彼女たちと私が対面し、何かを話し合ったとして、「分かり合える」のだろうか、と。

2013-01-27 22:16:20
sjo k. @sjo_k

もちろん、彼/彼女たちもそれから都会に出たかもしれず、ましてやこの情報化社会の中にあって、私とそうは違わない状況に置かれ、社会化されているかもしれぬ。ならば、表面上のコミュニケーションは問題なくなされる。しかし深部において、彼我の世界観や立脚点には決定的な断絶があるのではないか。

2013-01-27 22:16:31
sjo k. @sjo_k

そして、それが「深部」にある断絶であるからこそ、それは、「話せばわかる」の正反対にある、「話すほどわからなくなる」という事態を生み出すのではないのか、と私は戦慄した。ある人はこんな発想を農村と都市の差異を極大化していると笑い、別の人はもしかすると農村の蔑視だと怒るかもしれない。

2013-01-27 22:16:45
sjo k. @sjo_k

だが、私の意識はさらに飛躍した。他の二展の作品を観ても、被写体になっている様々な人たちに対して、それこそ片っ端から同じ感情を抱いていったのだ。「分かり合えない」し、「話すほどわからなくなる」、と。そこで思い出した。私は昔から、他者に対する信頼感が低い性格だったのだ、と。

2013-01-27 22:17:07
sjo k. @sjo_k

自分と違う・異質な他者に会うことを喜べ/楽しめる人は、他者への信頼感が高いのだと思う。私にもそういう感情がまったくないとは言わないが、やはり極めて少ないとは言える。しかも、特に今日に関しては、「分かり合えない」であろう人間を目の当たりにしてしまった、ということも大きかった。

2013-01-27 22:17:57
sjo k. @sjo_k

北井展の三里塚闘争を写したシリーズの前で、小学生の男児を連れた同年代の父親が「この人達は自分たちが正義だと思ってこういうことをしてるんだよ」と冷笑し、「こういうことがあったから成田空港は小さい空港になって、アジアの他の空港に負けちゃってるんだよ」という趣旨のことを言っていたのだ。

2013-01-27 22:18:40
sjo k. @sjo_k

私は眩暈を覚えた。そして、あの写真群を見て(いや、彼は「見て」もいないのだろうが)、その前でこういうことを言えるような感受性しかない人間とは、いくら話をしても(否、話をすればするほど)分かり合うことはできないだろうと確信した。そこで私の思考はすっかり固着してしまったのだ。

2013-01-27 22:19:23
sjo k. @sjo_k

このように「分かり合えない」人間を含んだ集団によって、一つの社会が作られてしまう、作らざるを得ない、というのは、一体どういうことなのだろうか。そんなことをしてよいのだろうか。それが正しいのだろうか。(一方で、「分かり合える」人間だけで作られた社会が、果たして正しいものなのか…)

2013-01-27 22:20:08
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