「ダルマ先生」はなにが問題だったのか
乙武さんとはるかぜちゃんの「だるま先生」問題について考えてみた。 ここには大きく分けて ①言葉の問題 ②コミュニケーションの問題 ③想像力の問題 の3つの問題があると思う。これらについて書いていきたい。
2013-01-27 10:58:42そのまえに、まずかんたんな流れについて。はるかぜちゃん(@harukazechan)が「乙武先生(@h_ototake)は明光義塾のダルマ先生に似ている」という内容のツイートをしたところ、「不謹慎だ」と炎上。けれど、はるかぜちゃんに悪意はなく、また乙武さんも傷ついてはいなかった。
2013-01-27 10:59:12この件に関して、詳しい経緯はこちら→(http://t.co/EZlAJbFE) またその一連の流れに対する乙武さんのコメントはこちら→(http://t.co/uUj3HAG3)
2013-01-27 10:59:28①言葉の問題
①言葉の問題 まず、今回の件ではるかぜちゃんや乙武さんの意見に賛成していた人の中で、「言葉は透明である」という立場の人が何人かいた。言葉は話し手の意図に左右されるもので、「差別語」など本来ないと。もしそうなら、言葉の意味は話し手の意図や受け手の感じ方のみに依存することになる。
2013-01-27 10:59:50けど、言葉とは個人のものではなくみんなで使うものだ。そして、みんなでつくりあげてきたものだ。それを個人の意図や文脈だけで自由に変えてしまうことはできない。すべては意識の問題、というのは、言葉が作られてきた歴史を無視してしまっている。では「差別語」とは一体どういう言葉なのか。
2013-01-27 11:00:10あまりにも長い時間、多くの人が「特定の人々を傷つけるため」に使ってきた言葉には、洗い落とせない汚れがついていると僕は思う。それが差別語だ。差別なんてない方がいい。けれど、死や病があるように、差別は存在する。その言葉によって深く傷つく人がいる場合、それを使わないことは一つの手段だ。
2013-01-27 11:00:28では、「だるま」に差別的な意味合いや、負のイメージはあるのか。ググってみたところ、「選挙で勝ったときにダルマに目を入れる」ことを差別だと視覚障害者団体は考えているみたいだったけれど、ダルマに手足が無いという意味合いでダルマを差別語だと考えている意見はほとんどなかった。
2013-01-27 11:00:41つまり、言葉には個人の意図や文脈ではどうしようもできないほど人を傷つけるものがあってその取り扱いにはとっても慎重になる必要がある。けれど、今回焦点となっている「だるま」は一般的にそうした言葉に該当するとは言えないようだ。
2013-01-27 11:00:55②コミュニケーションの問題
②コミュニケーションの問題 次に話し手の意図、聞き手の感情、そして「その言葉がだれに向けられているか」という3点に着目して、コミュニケーションについて考えてみたい。
2013-01-27 11:01:11話をシンプルに考えるために、まずは2人だけのコミュニケーションを考える。その場合は話し手の対象は聞き手だけ。この場合、話し手に悪意がなく、また聞き手が傷つかない限り、どんな言葉を使おうとも問題はない。例外的に、このときだけは言葉の意味は個人の自由になる。
2013-01-27 11:01:58だけど、そこに第三者が出てくると話は一気に複雑になる。たとえ話し手が「ある聞き手」だけに話しているつもりであっても、他の聞き手もその話を耳にしてしまうかぎり、そこからなんらかの影響を受けてしまう。ひとつたとえ話をしたい。
2013-01-27 11:02:22あるひねくれ者が、「おれは死ねって言われると逆に生きる勇気がでてくる。死ねと言ってほしい」と言い、その友人がいいよと言う。そして「(友人の名前)は死ね! 死ね!」と友人が叫んだとして、それを聞いた人はどんな気持ちになるか。たとえ当人が傷ついていないと知っても、不快にならないか。
2013-01-27 11:02:49ただし、「死ね」と「ダルマ先生」じゃぜんぜん違う、という意見はその通りだ。それに既に言ったように、「だるま」は「四肢が無い」という差別的な意味ではほとんど使用されていない。だったら、「不謹慎だ」と言った人は、いったいどのようにはるかぜちゃんの発言を受け取ったのか。
2013-01-27 11:03:05おそらく、はるかぜちゃんの例の発言を「(四肢がない人の代表のような)乙武さんが(四肢の無いことが特徴的な)ダルマと似ている」と理解したと思う。そして、この世界のどこかにいる「四肢が無い傷つきやすい人」を想像し、その人がこれを聞いたら傷つくだろう、と考えたんじゃないか。
2013-01-27 11:03:32あるいは、「もしも自分に四肢がなかったら、きっとこの発言で傷つく」と考えたのかもしれない。実際にはダルマ先生には手があるし、はるかぜちゃんは「四肢の無いこと」を共通項として「似てる」と言ったのではない。けれど、そのように「想像」してしまった人たちに罪はないと僕は思う。
2013-01-27 11:03:50もちろん、乙武さんの"少しでも相手を傷つける可能性のある言葉を見つけて、鬼の首を取ったように「不謹慎だ」と正義の味方を気取る人々の姿は、とても滑稽だ”という意見には僕も賛成する。ただ、そういう人は論外としても、やはりナイーブに驚いたり悲しんだりした人はいると思う。
2013-01-27 11:04:08③想像力の問題
③想像力の問題 これは、想像力の問題だ。たとえば腕の無い人をみて、どきっとしたり、かわいそうだと思うことは差別だろうか。僕はそれは差別ではないと思う。なぜなら、もし自分に腕がなかったら、あるいは大切な人の腕がなくなってしまったら。腕のある人にとってそれはきっと悲しいことだからだ。
2013-01-27 11:04:55そのように他者の痛みを想像することは、とても大事なことだ。けれど良くないのは、その自分の想像した痛みを絶対的で、腕の無い人全員に当てはまるものだと思い込んでしまうことにある。なぜそこで想像をやめてはいけないのか? 僕は、それこそが差別をつくりだす原因だと思っているからだ。
2013-01-27 11:05:11僕は、差別とは「ある特定の要素だけを見て、その人自身をきちんと見ないこと」だと思っている。「障害者の害の字を見ると障害者は傷つくだろう。障がい者にしよう」という配慮を、乙武さんは障害者を一律に見ている、という。言い換えれば、障害という要素だけを見て、その人自身を見ていない。
2013-01-27 11:05:27もちろん①言葉の問題で触れたように、汚れきって、使わない方が良い言葉もある。こういう言葉を用いて人を傷つけることこそが差別だ。けれども差別語を「使わない方がいい」という判断の奥には、「言われた人はみんな傷つくに決まっている」という思考の停止がきっとある。これも形を変えた差別では。
2013-01-27 11:06:56そもそも、コミュニケーションというのは、常に傷ついたり傷つけられたりする可能性がある。乙武さんが「背が高いと言われて傷つく人もいる」と言っていたが、そう言われたら背の高い人は「それ私はあんまり言われたくない」と傷ついたことを表明すれば良い。それがコミュニケーションだ。
2013-01-27 11:07:23