現状、文治と「和解」中みたいな感じでスカイプでやりとりしているが、果てしなく言葉の無力感のようなものを感じる。別に悪口ではないからね、一応。やっぱり表面的の、さらにその粉吹いているところしか見ない人間はいるもので、私の発言の意図は言葉の信用のならなさだけである。
2010-01-31 21:35:25『小説の誕生』を読んでいると、佐藤亜紀の特別講義を思い出す。言葉の信用のならなさなり、底が抜けているという事実は、たぶん彼女の言う世界の他者性とまた同じものなのだろう。
2010-01-31 21:36:59その言葉の無力みたいなのを前にしてみると、やはり沈黙すべきなのか。すべき、のすべき部分というのは、こうして馬鹿みたいなサービスで言葉を垂れ流すよりも、黙してあれこれしていた方が。実際、ここいくつかの友人との会話(おとしごと文治)っていうのは、そういうのを感じる。戦略として。
2010-01-31 21:42:23友っちなんかは、まあこの馬鹿げたサービスを見ていないかもしれない、ということもあるが、要するにずっと無言を貫いているわけであり、彼の言葉への戦略性みたいなものは、ここに出ているのかもしれない。
2010-01-31 21:43:50或いは、その記号としての出力のできなさを、できないまま受け止めている、ということもまたありえる。思ったことを言葉にできない、とするとき、やはりそれは本来的に言語化できていないのだ。だから、言語化すべきではない。そこに隠蔽される何かが潜んでいるはずで、無理にすると曲解される。
2010-01-31 21:45:10私はこのように結局「出してしまう」性質の人間なのだが、その私にしてみても、出し切れなさみたいなものは常々感じている。かつてある小説の中で、小説を書くことは「沈んでいく」ことだという風に表現したことがあるが、今読み直してもやはりそう思う。小説に限らず、何かを出すことは、沈むこと。
2010-01-31 21:46:56表現という言葉には、「表」という言葉があるが、それが結構トリックを含んでいるんじゃないのかと思う。「現」にしても、現実に繋がるわけで、表面的な印象を受ける。私がよく出すように、expressという語自体が、押し出すという意味を含んでいるのだから、それはそれで当然なのかもしれない。
2010-01-31 21:49:20しかし、言わばその押し出されたもの、というのは、果たして、どこに出ているのかということを感じる。表に現れる、のが表現だとして、そうすると、世界の表側に結局出てしまうんじゃないか。だとすれば、その反作用として、「わたし」が沈んでいくのか。
2010-01-31 21:50:33もしかしたら解釈行為というものは、そこからあるのかもしれないと史的に無知な私は思うわけだが、つまり、表現という表に現れたものを通して、表に現れていない、世界の裏側を把握しようとする。そうしてみると、作者と作品が強く結び付いていたのは、どことなく理解できてしまう。
2010-01-31 21:51:36作者が裏側を担っていたのだ。しかし、作者も殺されてしまったから、私(たち)は、世界の裏側を何とか作品を通じて見なければならない。その際に参照するものは世界の表側のものだから、その把握には不可能性が付きまとってしまう。なぜなら、それは表であって裏ではないという単純な事実があるから。
2010-01-31 21:53:41@mado_m 俺もそろそろお風呂はいるから言い逃げする。たぶん、現代において解釈行為を行うとき、裏側を見る必要はない。なぜなら、作者はもう死んでいるから。死んだものをわざわざゾンビみたいにしてよみがえらせる必要はないんじゃないかと思う。
2010-01-31 21:59:59@mado_m 表部分、つまり私たちは作品をちゃんと読んだほうがいい。作者の戦争体験が~とか、作者は子どもの頃から~とかそういったことを含めようとする読解が有効なときと無効なときがあることを考えないと。
2010-01-31 22:02:49@mado_m たとえば笙野頼子は極度にそういった裏側を含めた読解ができる数少ない作家であると思うけれど、そういった読解方法がすべてではないことは自明だと思う。私としては笙野頼子のそういった思想的部分ばかりを取り上げるだけでなく、表現的な部分での評論があっていいと思う。
2010-01-31 22:05:22@mado_m ところでこれは実体験に基づくものなのだけれど、私はプロットを書かないで考えながら執筆するから、その日でこういうのを取り入れようとか、こういうことを含めてみようとか、書いたのを読みながらこういう考えもできるかもしれないとか思って、とりいれることが多々ある。
2010-01-31 22:07:02@mado_m そういうとき完成した作品を読んでみると、かなりいびつで結論自体が作者もまったく予期していなかったものになることがある。というか最近、書いている小説はぜんぶそんな感じ。書き出しの考えがあって、それにいろんな考えが付属していって、作品のなかでひとつの体系を作ってる
2010-01-31 22:08:41@mado_m こういうとき、私はその結論についてこれはどういうことなんだろう?って考える。この姿勢はかなり読者的姿勢に近い。私は前に自分の小説について完全にわかっている自信はないけれど、誰よりも一番ちゃんと読んだ自信はあるって言ったけれど、それはこういう理由で。
2010-01-31 22:10:34@mado_m 作品が作者の初期段階での考えを乗り越えるような状態はたぶんプロットをがちがちに作ってもあると思う。俗にいう筆が走るってやつ?よくわからないけれど、少しでも筆が走った(滑った?)瞬間、作者はその作品に対して一読者的姿勢を迫られるんじゃないかと思う。
2010-01-31 22:12:21@mado_m ここまでまとめると作品というのは作者から切り離されることが可能だし(たぶんこれは現代文学の常識。ロラン・バルトとかかな?)、そういう状況においていない作者をあたかもいるかのように偽装して語ることはいいことではなくて、むしろ作品単体を精度よく読んだ方がいいんじゃね?
2010-01-31 22:16:38どうしよ、なんかここで返答をしてしまうのもアレだな、なんかつまらんな。いつか、やるか。まあとりあえず言っておくべきことは、私は作品の読解(裏側を見る)にあたって、作者がそれを担っていて且つそれが有効だと思われていた時代があったと述べただけで、何もそれに賛同しているわけではない。
2010-01-31 22:40:24