オウム真理教事件の言及から考える自由の尊重とテロ

主に渡邊芳之さん(https://twitter.com/ynabe39)のツイログから「オウム」で検索し集めたツイートのまとめです。 http://twilog.org/ynabe39 http://twilog.org/kikumaco http://twilog.org/guru_asahara/ 続きを読む
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あ〜る菊池誠(反緊縮)公式 @kikumaco

地下鉄サリン事件の驚きは忘れない。学芸会宗教だと思っていたオウムが選挙に出たときにおぼえた違和感の正体をきちんと突き詰めておくべきだった。

2010-03-20 11:21:58
渡邊芳之 @ynabe39

麻原が初めて大学に入り込んで来たのは、まさに私が勤めていた時の信州大学だった。東京の選挙の時と同様に、私たちはただ嘲笑することしかしなかった。結果として大学は多くの学生をオウムに連れ去られ、松本サリンでは何人もの学生が命を失う。私たちはどうすればよかったのか。

2010-03-21 00:54:10
渡邊芳之 @ynabe39

じっさいオウム問題などでも学問の自由や大学自治が必要な対策を阻害した例はあります。何事にもマイナス面はある。 RT @gyaooo: ....一歩転ぶとカルトになる危険性も孕んどんねん。どんなトンデモでも、その言うとおりの回答するんがテストやからな。

2010-07-31 20:59:34
麻原彰晃 @guru_asahara

ダメンズではないが、オウムでしか生きられない奴もいる。また「元オウム」というスティグマを隠せない不器用な奴もいる。そういう奴にもせめて死なないだけのエンパワメントをしなければならない。これはあなたの仕事でもあるでしょう。 @ynabe39

2010-08-16 20:46:47
渡邊芳之 @ynabe39

@guru_asahara 俺はやってないですけど俺の仲間はそういう仕事をしています。

2010-08-16 21:03:25
渡邊芳之 @ynabe39

@guru_asahara 私はオウム事件で教え子が姉妹をなくす、教え子が行方不明となるということを経験しましたが、あなたがそれをあくまでも笑おうとする勇気は支持します。笑うことでしか克服できない悪というのはあると思うからです。

2010-08-16 21:07:53
渡邊芳之 @ynabe39

あえてヤバイ例を挙げれば,オウムの殺人だって彼らにとっては「善」であったわけだ。私のつまらない個人的な善は許容され,彼らの善は許容されないとすれば,そこにはどうしても個人を超えた社会的な判断が介在することになる。

2010-08-30 09:04:55
渡邊芳之 @ynabe39

われわれの社会が尊重する「信仰の自由」とは「どのような教義であっても信じることを迫害されない」ということだ。もしその宗教の教義自体が直接的に反社会的行為につながるものであったとしても,罰せられたり迫害されるのは「実行される反社会的行動」だけであって教義ではない。

2011-02-11 07:17:15
渡邊芳之 @ynabe39

もし「異教徒は人間ではないから殺してもよい」という(昔のキリスト教のような)教義を持つ宗教が現在も存在するとしても,その信徒が「実際に」組織的に異教徒を殺しはじめない限り,われわれの社会はその宗教を弾圧してはいけない。これが近代以降の信仰の自由の理念だ。

2011-02-11 07:20:36
渡邊芳之 @ynabe39

ある宗教を本気で信じることは必然的に他の宗教を信じる自由を否定することにつながる。しかしそのことによって歴史上ものすごい数の人が死んだ。近代社会が「信仰の自由」という「教義」を持つようになったのは「宗教が原因で殺し合いにならないようにするため」である。

2011-02-11 08:04:04
渡邊芳之 @ynabe39

むしろ「異端審問」的な発想と「カルト批判」は一致するどころか矛盾するのではないか?だって「カルト宗教」の最大の特徴は「自分たち以外の教義を認めない」ことなんだから。

2011-02-11 08:14:21
渡邊芳之 @ynabe39

自由というのは甘いものではない,ということは以前から他の自由についても言っています。自分が自由を享受することは他者の自由によって生じうるリスクの可能性と常にペアです。

2011-02-11 08:53:01
渡邊芳之 @ynabe39

たとえば教義文書に「異教徒は殺す」と書いてあれば実際に殺さなくても規制できるとお考えですか? RT @hanehitsuji0529: 行動が抽象的過ぎてあなたのいう表現の定義がいまいち理解できませんが、教義に書かれていても表現にはならないということでしょうか?

2011-02-11 09:04:41
渡邊芳之 @ynabe39

宗教団体の教義やその団体が発行する文書にも当然のことながら「表現の自由」がある。「反社会的な行為を表現するが実行はしていない場合」というのが表現の自由のもっとも根本的な議論の対象になるのは暴力表現や性表現の場合とまったく同じ。

2011-02-11 09:07:54
渡邊芳之 @ynabe39

だったらむしろ積極的に表現させるべきではないですか。 RT @ymrsnc: 政府による禁止等は出来ませんが、国民が教義を知って警戒・敬遠する事は出来ますね。

2011-02-11 09:08:41
渡邊芳之 @ynabe39

いろいろな意味で,私は「カルト宗教からの信者の救出」みたいな活動が,その宗教と教義的に対立する宗教勢力によって行われているものには不信感を持ちます。無神論者によって運営される宗教的に中立な反カルト機構が必要だと思います。

2011-02-11 10:03:36
渡邊芳之 @ynabe39

「世界宗教会議」なんかを開いてキリスト教や仏教やイスラム教やいろいろの宗教の代表が集まって仲良く世界平和について語り合うというのは「世俗的」にはとてもよいことだと思うんだけど「宗教としてそれがほんとに成り立つのか」については考え込んでしまう。

2011-02-11 11:39:38
渡邊芳之 @ynabe39

いまの社会のあり方と「自由と平和」を維持していくためにはわれわれはみな「価値相対論者」にならなければならなければならないことは論理的には当然の帰結としてわかるのだが,とくに信仰の問題について考える時にが「みなが価値相対論者である世界」というのが本当に可能なのか疑問に思える。

2011-02-11 13:04:47
渡邊芳之 @ynabe39

原理主義のもうひとつの特徴は「他の立場に対して寛容でない」ことです。「教義を文字通り行うことが信仰である」という立場は「文字通り行わない」立場に寛容であることはできないからです。この不寛容は同じ宗教の他宗派だけでなく他宗教に対しても向けられます。

2011-02-12 04:01:59
渡邊芳之 @ynabe39

原理主義は必ず周囲の社会や他宗派・他宗教との間に軋轢を生みます。聖書に書いてあることや聖書に見るイエスの教えを「文字通り」に信じ,実行しようとしたら,必ず家族や地域社会,職場などで大きなトラブルになります。

2011-02-12 04:06:28
渡邊芳之 @ynabe39

「信教の自由」とは「社会や他者からみてどんなに邪悪で危険な教義であっても信じることは自由」ということです。しかし個々の信者や教祖の行動が違法だったり他者の人権を侵害する場合にはその「行動」だけが規制される。「信じる内容」はあくまでも自由です。

2011-02-12 05:32:15
渡邊芳之 @ynabe39

とはいえ今の日本では「趣味に命を賭けること」は容認されても「宗教に命を賭けること」を主張したら明らかにカルト認定されますねw。 RT @bible_go

2011-02-12 05:40:50
渡邊芳之 @ynabe39

信教の自由にしても表現の自由にしても「他者の信念を個人的に批判したり攻撃すること」と「人の信念を法的社会的に制限すること」は区別して論じないといけない。前者はそれ自体「自由」の一部をなすもので制限されるべきではないが,後者は著しく抑制的であるべき。

2011-02-12 06:03:34
渡邊芳之 @ynabe39

「潜在的な危険」を個人的に警戒するのは自由ですが,社会や法律が「潜在的な危険」を規制しようとすることには反対です。 RT @It_km: ...カルト教団の信者たちは、潜在的に反社会的な行動を強制される可能性のある人たちであるということを言っているつもりです。

2011-02-12 06:05:53
渡邊芳之 @ynabe39

個人の責任で個人として警戒し「強制されている人」を個人的に説得すればよいと思います。法や権力に頼るのではなく。 RT @It_km: ...ただ手をこまねいて見ていればいいとも思えません。

2011-02-12 06:14:25