縄文、弥生時代(一部奈良時代)の生活形態、集落と交易

縄文、弥生時代(一部奈良時代)の生活形態など、「不思議だな~」「どうしていたんだろう?」といういくつかのポストに頂いた、考古学的見地からのサジェスチョンと、そこからの連想をTLから拾ってみました。 学術的なお話ではなく、柔かい古代生活考としてお楽しみ頂けたら幸いです。
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王羲之の「双鉤填墨」が伝小野道風筆だったというRTを見かけて

賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

RT>そう言えば名古屋市と春日井市の間、味婉からか味美あたりが小野道風ゆかりの場所だった気が。

2013-01-08 19:08:39
Gijyou @gijyou

@k_h_musume 春日井市の松河戸町が小野道風生誕の地と地元では言っています。ホントかどうかはわかりませんが。

2013-01-08 19:30:09
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

@gijyou 矢田川と庄内川の合流点からやや川上に行った辺りですね(*´∇`*)。以前、毎週末バイクで走っていた河川敷のすぐ側に、大きな立て看板があったのを思い出しました。

2013-01-08 19:46:02
Gijyou @gijyou

@k_h_musume 24・5年前に、このあたりで発掘調査をしていました。残念ながら小野道風関連のものは見つかりませんでしたが、縄文から弥生時代の集落と中世の条里型水田を掘りました。

2013-01-08 19:48:53
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

@gijyou この辺りから北東にかけては古墳群がたくさんあった記憶がありますが…。思えば守山区の北東部が新興住宅地として開発されるようになったのがその頃でしたね。集落はやはり高地性の環濠集落なんでしょうか?。

2013-01-08 19:58:13
Gijyou @gijyou

@k_h_musume 志段味古墳群があるのは庄内川対岸の名古屋市守山区ですね。松河戸遺跡の弥生前期の集落は、低地に営まれた環濠集落です。尾張では唯一、弥生前期の木製品が出土している遺跡なので、私も論文でずいぶん使わせていただきました。

2013-01-08 20:31:20
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

@gijyou ありがとうございます(*´∇`*)。松河戸遺跡、とりあえずP/Cでざっと検索してみました。少し前から漠然と、庄内川流域の集落は物の流通拠点とされていたのかなあなどと考えていたので、大変勉強になりました。これからもう少し調べてみますm(__)m。

2013-01-08 21:24:54
Gijyou @gijyou

@k_h_musume 弥生時代中期になると、さらに規模の大きな勝川遺跡ができます。ここはまさに物流の拠点で、大規模な木製品の加工施設を有しており、ここで木材加工をして下流の集落に供給したと私は考えています。

2013-01-08 21:42:33
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

@gijyou 朝日遺跡などもそのネットワークの一部だったとすると、庄内川沿いに下流へ向けて製造拠点、物流拠点、交易拠点があったような感じでしょうか。わ~なんだかわくわくしてきました(*´▽`*)。

2013-01-08 22:13:58
Gijyou @gijyou

@k_h_musume 濃尾平野は水稲耕作に向く広大な沖積平野が広がる反面、木材・石材・土器製作用の粘土などといった生活に必要な素材が全く自給できない所でもあります。そこで石材や土器は伊勢から、木材は尾張東部の丘陵地から供給するという体制が早くに出来上がったと考えられます。

2013-01-08 22:19:21
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

@gijyou 素材の自給ですか( ゚д゚ )!、考えてみたことがなかったです。耕地と水の供給と道具の生産のバランスが取れてはじめて、稲作集落として発展していくんですね。

2013-01-08 22:46:11
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

そうか~、そう言えば濃尾平野って花崗岩が風化して沖積したという印象です。道具を作るに適したサヌカイトも黒曜石も他の地域のものですよね。それにこの地域の粘土は当時の焼成法では手におえなかったわけだし、道具を生産するには、素材を他の地域から運んでくる必要があったんだ。

2013-01-08 22:50:51
Gijyou @gijyou

@k_h_musume この点に関しては河内平野もよく似ています。ただし土器は自給できていますし、他地域に供給すらしていました。木材の枯渇が一番早かったのは福岡平野で、弥生中期にはすでに作りかけの木製品すら出てこなくなります。岡山平野も木材は自給できなかったようです。

2013-01-08 23:02:45
Gijyou @gijyou

@k_h_musume 濃尾平野低地部は木曽川の沖積作用せ形成された平野なので、基本的にはいくら掘っても砂しか出てきません。ただし、名古屋台地では粘土が採れます。石斧用の石材は北勢地方の員弁川支流の青川で採れる石しか用いません。

2013-01-08 23:07:25
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

@gijyou 多くの地域で弥生時代中期には、近隣の集落間で水運も利用した活発な交易が行われていたと考えられるのですね。どういうわけかもっと閉鎖的な関係を想像していました。

2013-01-08 23:27:55
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

いやむしろ交易が行われていたからこそ環濠も逆茂木も必要だったのか?な?。人間に対してだけじゃないだろうし。

2013-01-08 23:31:24
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

わあん、面白すぎて困るよう。弥生時代。

2013-01-08 23:32:49
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

してみると登呂邑に環濠が無い理由ってなんだろう。

2013-01-08 23:41:20
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

単純に地下水位が高いから、環濠のつもりで掘っても、結果ただの水路にしかならなかった、なんてオチだったりして(*´∇`*)。

2013-01-08 23:45:03
Gijyou @gijyou

@k_h_musume 弥生中期に出てくる大型建物は、他所から来る人へのランドマークの役割を果たした可能性があります。ただ時代を問わず、他地域産の土器や石器が出てくることから、弥生時代に限らず縄文時代以来、人々の交流は現代人には計り知れないものがあるようですね。

2013-01-09 06:49:38
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

@gijyou おはようございます。ランドマーク、なるほどです!。登呂邑には八本柱の大型建物があったようで、高床式で復元され、祭殿と呼ばれていますが、そういった建物が、社会的まとまりのある集落の存在する目安とみなされていたかもしれませんね。興味深い示唆ありがとうございます。

2013-01-09 07:18:58
賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

昨夜から続けてリプライ頂いた弥生時代の交易についてのポストがとても興味深くて、わくわくどきどき。

2013-01-09 07:29:51

志波城古代公園さんが鋭意製作中の紹介映像のスチルを拝見して

賀茂史女/かものふひとのむすめ @k_h_musume

烏帽子で思い出した、松河戸遺跡では、平安中期の条里制水田跡の畔と思われる場所で、烏帽子の断片らしきものが出土してたそうで、布も残るんだなあとちょっと感動。

2013-01-15 21:07:06
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