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細川の御隠居 @yuusai1534
∥_*・_・)_ <こんにちは……。寒いですね……。
冬の寒さにかつての記憶が蘇ってきたようです
細川の御隠居 @yuusai1534
∥ ∥_*・_・)_ <天正14年(1586)の2月も、大層寒い日でございました……。 あの年の今頃、太閤様による京都内野の新居の縄打ち(工事の最初に、間縄(けんなわ)を使って土地を測量することです。)が行なわれました。後の聚楽第です……。
細川の御隠居 @yuusai1534
「多聞院日記」(奈良興福寺の塔頭多聞院での寺院の生活、身辺のことを記した日記。室町時代末期から江戸時代初期まで延々140年分記録されているので、激動の時代の奈良を中心とした近畿地方の情勢を物語る上で、とても貴重な歴史的資料とされています)には、
細川の御隠居 @yuusai1534
天正14年2月27日のぺーじに「去廿一日ヨリ、野御構普請、大物以下事々敷、諸国衆自身自身 沙汰之。ヲヒタゞシキ事也」とあり、工事の開始を21日としているそうです。
細川の御隠居 @yuusai1534
夫の従兄弟、吉田様の兼見卿記では2月23日ともされておりますが……、この聚楽第の縄打ち、夫も太閤様の命で参加しております。
細川の御隠居 @yuusai1534
では私は何をしていたかと言うと……、同日、その吉田兼見様のお屋敷を訪ね、初めて孫に会う--と記録されています。 吉田様のお屋敷ですから、娘の伊也ちゃんの子供でしょうね……。 後に長束様の御子息、助信様に嫁ぐことになる孫娘、徳雲院ちゃんです。
細川の御隠居 @yuusai1534
そして清水参詣をした、と資料には記録されているそうなのです。出典はやっぱり兼見卿記でしょうか。吉田様は筆まめでいらっしゃいますね。 この景色を、私も眺めていたのでしょうか……。 http://t.co/uytoZcYsx4
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細川の御隠居 @yuusai1534
聚楽第は夫にとって縁深き場所で、歌会や茶会などによくお呼ばれされておりました。 太鼓名人、金春様を夫が泣かせた(語弊のある言い方)のも、聚楽第で行われた能の会でのことでしたね……(戴恩記より)
細川の御隠居 @yuusai1534
そしてこの聚楽第の近く、毘沙門町には利休様のお屋敷があり、利休聚楽邸と呼ばれていました。 利休様があのような形で亡くなられ、取り壊された後、そこを買い取ったのが私ども夫婦でした。
細川の御隠居 @yuusai1534
私の実家の沼田家所有とし、夫が廃嫡された孫の忠隆一家の屋敷として与え、そこは北野屋敷と呼ばれました。
細川の御隠居 @yuusai1534
1626年(寛永3年)に忠興が訪ねていって、忠隆と和解し、自分にとっての孫らを初めて抱っこしたのも、この北野屋敷でのことでありました。
細川の御隠居 @yuusai1534
息子と孫の和解を見ることなく、その十六年ほど前に亡くなっていた夫ですが、 夫亡き後は、忠隆と千世様の離縁、康之さんや興秋の死など悲しいことも数多くありましたから……、それを見ずに逝けたことは幸せだったかもしれませんね。

そしてこのおちゃめさんぶり

細川の御隠居 @yuusai1534
清水の舞台∥η*・。・)η<ヤッホーィ
閑話休題。
細川の御隠居 @yuusai1534
そうそう。千世様と離縁後、1620年に忠隆は豊臣家の浪人、長谷川求馬様の娘、喜久様という方を継室として迎えておりました。なので忠興が面会した子供たちは、忠隆と喜久様の間に生まれた男子、長岡忠恒君と忠春君ですね……。
細川の御隠居 @yuusai1534
兄より元気に挨拶できた忠春君を見て、忠興は「弟の方を跡取りにした方がいいんじゃない?」と言ったと伝わっています。
細川の御隠居 @yuusai1534
(綿考輯録および内膳御家譜地より抜粋、です……)

せっかくなのでこれも。

細川の御隠居 @yuusai1534
トンデケー>(ノ*・。・)ノ 。.:*・♡゚*:.☆。 。.:*・゚♡゚・*:.。 。.:*・゚♡゚・ *:.。 。☆.:*・゚♡゚・*TT甘:.。 ☆。.:*・

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