藤孝さま、たにーについて語る
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事の発端はこちら。
第十回企画展示「細川ガラシャ 大名家の姫君たち」開催
http://www.discovery-museum.com/kikakuten.html
おいでになった藤孝さまのレポートもとい惚気をどうぞ。
……ネタバレになりますゆえ、れぽーとは後程、展示が終わってからと思いますが、特別に一枚だけお見せしちゃいますね……えへへ ξξ*・▽○)っ 妻です http://t.co/nRaxBtvZSd
2013-02-25 17:26:11安定の奥方自慢。
あんどお若い方々の感想。
藤孝さまでれすぎですwww
@yuusai1534 世阿弥:いしがつよそうで、きひんがあって、けだかくて、ほこりたかい、かんじがしますです(。・ω・。)きりってしてる、かんじなのです。
2013-02-25 17:36:30@yuusai1534 Σ(*`・△・) あっ!写し絵、大丈夫だったのですねっ!(*^艸^) 麝香さま、素敵です♪♪♪
2013-02-25 17:38:18@azaimanpukumaru はい、聞いてみましたところ、ふらっしゅを使わなければ、とのことでした。万君も次は是非記録におさめてきてね
2013-02-25 17:39:27@yuusai1534 (*>艸<) さすが、藤孝さま。ぬかりなしです!私も聞いてみれば良かったです。(*`・ω・)眼にはしっかりと焼き付けてまいりました♪
2013-02-25 17:44:23気を取り直して。
藤孝さま、続きをどうぞ。
ですかばりーで、妻の逸話がばっちり書かれていて嬉しいですね。 妻の活躍により関ヶ原で西軍にあっても、本領安堵されたのは藤掛永勝、谷衛友、小出吉政、川勝秀氏などがそうです。 #たにーの話
2013-02-25 20:58:37山家資料館にある資料によると、谷家は天正十年(158 2)太閤様より一万六千石をもって丹後の山家郷に封ぜらました。 #たにーの話
2013-02-25 21:00:34この地は丹後から京に通じる主要道路を扼する戦略上重要な地点にあり、たにーとその父、 谷大膳殿は武勇溢れる武将であった為、そこを任されることとなったのです。 #たにーの話
2013-02-25 21:02:23谷大膳殿は三木城攻めで奮戦するも、賀伏砦で無念の討ち死にをします。この砦には現在も山家藩主谷家が建てた大膳殿の立派な墓が存在するそうですが、たにーは敵味方入り乱れる戦場で、見事、父の敵を討ち取り、大膳殿の遺体を奪い返し、名を上げることになります。#たにーの話
2013-02-25 21:04:00彼は太閤様に仕えて、伊勢・賤ヶ岳・長久手・九州の島津攻め、小田原征伐と活躍し加増を重ねて大名となり、 文禄の役ではついに海賊王に……、もといたぐいまれな軍功により名刀と言われた国光の刀を褒美に授けられる程でした。 #たにーの話
2013-02-25 21:04:46とある件で仲裁役を頼まれた忠興が、相手が加藤清正殿と聞くと「用心棒に」とたにーを連れて行き、 案の定喧嘩寸前になった時も、あの加藤殿相手に一歩もひけを取らなかった話などが残されています。 たにーの戦闘能力は、きっと虎以上です。 #たにーの話
2013-02-25 21:06:44そんなたにーの強さをよく知る忠興は、関が原後に手柄を立てた家臣に具足を授ける時、 「その具足の頬当ては谷頬と言って、谷の面体を似せた逸品である。谷の武功にあやかるように。」と評したと伝わっています。 #たにーの話
2013-02-25 21:07:18その関が原の戦いで、たにー本人はやむにまれず西軍に属しましたが、 私の和歌の門下であり、忠興とも仲良しです。 結果、田辺城に向かって空砲を撃ち続けました。これが世に言う「谷の空鉄砲」です。 #たにーの話
2013-02-25 21:08:17その後、小野木殿へ福知山攻めには細川軍と共に参加。 私の取りなしにより本領安堵となり、大坂冬・夏の陣にも徳川側で参加し、その後は徳川幕府の御伽衆(将軍の相談役)に名を列ねました。 #たにーの話
2013-02-25 21:09:04この本領安堵に一役買ったのが……、最初に話しましたね。 麝香が夜回りの時に自らの白粉と紅で描いた、細川に密かに味方してくれていた寄せ手の旗印と配置図です。 私はこれを徳川様に提出して、たにー達の本領安堵を願い出たと言います。 さすが私の妻。 #たにーの話
2013-02-25 21:09:34細川家と谷家はその後も良好な関係を築き、細川家が豊前中津へ転封になると、谷家への置き土産に、と資材を持参して山家城下の橋を掛け替えました。 #たにーの話
2013-02-25 21:10:11