山本七平botまとめ/【受験勉強的思考】/模範解答が無い問題は考えた事が無い明治以来の日本人

山本七平著『1990年代の日本』/民族の履歴書/受験勉強的思考/12頁以降より抜粋引用。
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山本七平bot @yamamoto7hei

①【受験勉強的思考】「明治以降の日本人は考える必要がなかった」といえば当然に反論があるであろう。 だが「受験生は考える必要はない」といえば、ある程度は理解してもらえるかも知れない。<『1990年代の日本』

2013-03-01 22:57:42
山本七平bot @yamamoto7hei

②というのは受験生も、問題を解くために一心に考えており、文字通りねじり鉢巻で考えているであろうが、それはあくまでも提出された問題を解くために考えているのであって、何らかの現象から解くべき問題を「問題」という形で抽出するために考えているのではない。

2013-03-01 23:27:56
山本七平bot @yamamoto7hei

③さらにその問題には必ず模範解答がある。ということは先人がすでに解いた問題を解いているのであって、どのような解答が出るか全くわからない問題を何とか解こうとしているのではない。 さらに受験勉強は、問題を解くことに目的があるのでなく試験にうかることが目的である。

2013-03-01 23:57:43
山本七平bot @yamamoto7hei

④ということはなるべく少ない労力で、なるべく短時間に、模範通りの解答に到達すればよいのであって、そのために思考の労をなるべく省いた方がよいはず、ここにカンニングなるものが存在する理由がある。 いわば考えずに解答を見つけ出すことができればそれが最も近道なのである。

2013-03-02 00:27:49
山本七平bot @yamamoto7hei

⑤ということは、たとえカンニングをしないでも、出題を予想される問題の模範解答のすべてを「考えず」に暗記してもよいわけである。 そして「考える」をあくまで本筋とするなら、カンニング・ペーパーも丸暗記という記憶装置へのつめこみも本質的には差はない。

2013-03-02 00:57:39
山本七平bot @yamamoto7hei

⑥一方はカンニング・ペーパーに記し、一方は頭脳に記しているという違いだけだからである。 もし違いがあるとすれば、丸暗記はルール違反ではないが、カンニングはルール違反であるという受験のルールの問題であって、「考えたのか否か」の問題ではない。

2013-03-02 01:27:53
山本七平bot @yamamoto7hei

⑦われわれは明治以降「受験生が試験問題を考える」ような形で考えることを「考えることだ」と思い込んで来た。 従って「明治以降の人間は考える必要がなかった」といえば奇矯な言葉と受け取られて不思議ではない。

2013-03-02 01:57:37
山本七平bot @yamamoto7hei

⑧というのは、自らが到達すべき目標と見なしている「先進国」が存在する限り、その存在自体がさまざまな解くべき問題を提出してくるし、同時に、すでに解いたという模範答案も、先進国の存在そのものが提示してくれているからである。

2013-03-02 02:27:47
山本七平bot @yamamoto7hei

⑨従ってわれわれはみな受験生のように、なるべく少ない労力で、なるべく考える労を省いて模範答案に到達すればそれでよかった。 そして時にはカンニングをして先進国の非難をあびたりもした。 だがこの状態が、やや異変を生ずるのが大正時代である。 これについては後述しよう。

2013-03-02 02:57:38
山本七平bot @yamamoto7hei

⑩しかし以上のことは、明治が「白紙」で西欧を模倣したということではない。 通俗史家H ・G ・ウェルズが明治の日本を「西欧(という先生の下にある)の優等生」と定義したのは一理あるが、この優等生はまず「何学部の何科を受けたら最も有利か」を正確に見抜く目をもっていた。

2013-03-02 03:27:47
山本七平bot @yamamoto7hei

⑪彼(註:日本)はまず啓蒙主義以降、産業革命以降のヨーロッパのみに目を向け、更にヨーロッパの中での最強の先進国を模範国として目標にし、伝統的なキリスト教ヨーロッパ文化や、産業革命から外れた諸国には目を向けようとしなかった。 そして「科」の選択が終ると猛然と受験勉強を開始した。

2013-03-02 03:57:38
山本七平bot @yamamoto7hei

⑫時には挫折したが、少なくともその「科」に関する限り、教師に追いついてしまったといってよい ――もちろん別の「科」はそうではないが、そこははじめから学ぶ気がないから問題外である。 どうやらわれわれは、少なくともある「科」は卒業したらしい。

2013-03-02 04:27:49
山本七平bot @yamamoto7hei

⑬だが「習い性となる」で、明治以降一貫して行われて来た「受験勉強的思考法」は抜けていない。 その最も幼稚な表われは、まず、欧米以外の何らかの「科」を目指そうという行き方であり、その目標はソビエトから文革下の中国、ベトナムの解放区、さらに第三世界の国々に及んだ。

2013-03-02 04:57:36
山本七平bot @yamamoto7hei

⑭いわばそこに模範答案を求めたわけである。 だが皮肉なことに多くの場合、抱かれていたイメージである「模範答案」を逆に先方が破棄するという形でこの傾向は大体において終止符が打たれた。

2013-03-02 05:27:47
山本七平bot @yamamoto7hei

⑮だが、終止符を打って「さて……」となると、「模範答案がない問題は考えたことがない」という明治以来の伝統は、逆に、「考えること」の放棄につながるという傾向を示すようになった。

2013-03-02 05:57:38
山本七平bot @yamamoto7hei

⑯…明治以降、その中で特に明治は、受験勉強のように学び、解答のある問題しか考えようとしなかったのかも知れぬ。 しかし、その学び方、考え方の中にも、また試行と模索の中にも、参考になるものがあるはずである。

2013-03-02 06:27:46
山本七平bot @yamamoto7hei

⑰…では明治の直前に日本人はどのような位置におり、それまでにどのような文化を蓄積して来たのか。 これも探究すべき問題である。

2013-03-02 06:57:38
山本七平bot @yamamoto7hei

⑱というのはわれわれは明治およびそれ以降に、前述のように西欧のある「科」を選択して学び、ほぼ履修し尽くしたといえるであろうが、それは日本の過去の文化的蓄積をすべて捨てて白紙の状態となって、その白紙に西欧の伝統的キリスト教文化を刷り込んだということではないからである。

2013-03-02 07:27:50
山本七平bot @yamamoto7hei

⑲これは大学のある「科」を選択して履修したからといって、それ以外の自分のすべてが消え去るのではないのと同じである。 第一、その選択を自らが行ったなら、選択をする主体性をもつ自己がすでにそこに確立されていたはずである。

2013-03-02 07:57:38
山本七平bot @yamamoto7hei

⑳その自己は、履修が終ったからといって消えるわけではなく、現在も保持しているはずである。 では一体、いまに至るまで日本が保持しつづけている文化、その秩序の基本となっている生活規範、価値観、道徳観はどのようなものなのであろうか。

2013-03-02 08:28:03