ジル・ドゥルーズ「感覚の論理」画家フランシス・ベーコン論 11 画かれる前の絵画…冒頭ベタ入力

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彗虎 @momonokoko

ジル・ドゥルーズ「感覚の論理」画家フランシス・ベーコン論 11 画かれる前の絵画… 画家が純白の面を前にしていると考えるのは誤りである。象形的信仰はこの誤りから生じる。事実、もし画家が真新しい面を前にしているとすれば、彼はそこに、モデルとして機能する外部の対象を再生することも(1

2013-03-09 18:58:37
彗虎 @momonokoko

可能であろう。しかし事情はそうではない。画家は、頭の中、自分の周り、さらにはアトリエの中に多くのものをもっている。ところで彼が頭の中や自分の周りにもっているものはすべて、彼がその仕事を始める前からすでに、多少は潜在的に、そして多少は顕在的に、カンバスの中に存在している。(2

2013-03-09 19:06:01
彗虎 @momonokoko

それらはすべてカンバスの上に、現実的あるいは潜在的イメージとして現在している。したがって画家の任務は、真白な画面を埋めることではなく、むしろ空にし、取り除き、拭い去ることにある。それゆえ彼は、モデルとして機能している対象をカンバスの上に再生するために画くのではなく、(3

2013-03-09 19:10:37
彗虎 @momonokoko

モデルとコピーの関係を逆転する機能をもつ絵を生産するために、すでにそこに存在しているイメージの上に画くのである。要するに、明確にされるべき点、それは、画家の仕事が始まる前に、カンバスの上にすでに存在しているこれらのあらゆる「所与」である。そしてそれら所与の中で、(4

2013-03-09 19:14:30
彗虎 @momonokoko

どれが妨害となり、どれが助けとなり、またさらにはどれが予備作業の結果であるのか。 第一に象形的所与が存在する。象形化の作用は現実に存在する。それは既成の事実であり、その作用は絵画に先行しさえしている。われわれは、説明する写真、物語る新聞、そして映画のイメージ、テレビのイメージ(5

2013-03-09 19:17:42
彗虎 @momonokoko

に包囲されている。生理的であると共に心理的でもある紋切り型、全く既成の認識、思い出や幻想が存在する。そこには、画家にとって極めて重要な一種の試練が存在している。というのも「紋切り型」と呼ぶべきあらゆる範疇の事象が、作業開始以前にすでにカンバスを占領しているからである。(6

2013-03-09 19:21:23
彗虎 @momonokoko

それは劇的で、深刻である。セザンヌは、この劇的な試練(エクスペリアンス)を最高に効果的な仕方で切り抜けたと思われる。カンバスの上には、常に-既に、紋切り型が存在している。したがってもし画家が、紋切り型を変形し、それを歪曲しあるいは痛めつけ、あらゆる面でそれを手荒く扱うことで(7

2013-03-09 19:24:53
彗虎 @momonokoko

満足するなら、それはなおまだあまりにも知的で、あまりにも抽象的な反応であり、その結果紋切り型はその灰の中から再生し、画家はなおまだ紋切り型の構成要素の中に取り残されるか、あるいはまたパロディ以外の慰めは彼にはもたらされないということになる。(8

2013-03-09 19:28:15
彗虎 @momonokoko

D・H・ローレンスはすばらしい文章を書いている。「四〇年にわたる激烈な闘いの後に、実は彼は、一個のりんご、一、二個の花瓶を完全に我が物にすることに成功する。それだけが彼が為すことのできたすべてである。それはごく些細なことにも思われる。彼は失意のうちに死んだ。しかし重要なのは(9

2013-03-09 19:34:31
彗虎 @momonokoko

第一歩である。そしてセザンヌのりんごは極めて重要である。プラトンのイデアよりも、より重要である…もしセザンヌが彼自身のバロック風の型通りの表現を受け入れることに同意していたら、彼のデッサンは古典主義の規範に則り、完璧に優れたものであったろう。そして批評家は誰一人としてそれに(10

2013-03-09 19:39:16
彗虎 @momonokoko

難癖をつけることはできなかっただろう。しかし古典主義の規範に則り、優れている時、セザンヌにとってそのデッサンは全く意味のないものに思われた。それは一種の紋切り型であった。そこで彼はそれに襲いかかり、その形式と内容を根こそぎにしたが、ついでに大いに酷評され、へとへとになった(11

2013-03-09 19:43:34
彗虎 @momonokoko

結果、彼は嫌になり、残念にも紋切り型をそのままに打ちやった。なぜならいつも彼の思い通りというわけにはいかなかったからである。セザンヌの絵が持つ喜劇じみた要素が現れるのはまさにそこにおいてである。紋切り型の表現に対する彼の激しい怒りは、彼をしてしばしばそれを《パジャ》や(12

2013-03-09 19:46:59
彗虎 @momonokoko

《婦人》にみられるパロディに変えさせた…彼は何かを表現したかった。しかし、それをする前に、彼はヒドラの頭をもった紋切り型と戦わねばならなかった。しかもそのヒドラの最後の頭を、彼は決して切ることができなかった。紋切り型との闘いこそ、彼の絵画において最も目につくものである。(13

2013-03-09 19:50:40
彗虎 @momonokoko

戦闘の砂塵はもうもうと立ち上がり、砲弾の破片は辺りに飛び散った。彼の模倣者たちが非常に熱心に模写し続けるのは、この砂塵であり、その破片である…セザンヌ自身が望んでいたのは再現的描写であったと私は確信する。彼は忠実な描写を望んでいた。彼はそれがより以上に忠実であることを端的に(14

2013-03-09 19:55:24
彗虎 @momonokoko

望んでいた。というのも写真に撮ってみても、セザンヌが望んでいた以上に、より忠実な描写を手にすることは非常に困難だからである…その努力にもかかわらず、女性たちは紋切り型の、既知で既成の対象にとどまった。かくて彼は、固定観念を取り除き、直観的認識に達するまでには遂に(15

2013-03-09 19:58:46
彗虎 @momonokoko

至らなかった。妻の場合だけは例外であった、というのも彼女の場合は遂にりんごの場合のような特性を感得するに至ったからである…男の場合セザンヌは、衣服、つまり深い皺の強ばった上着、帽子、シャツ、カーテン等を強調することで多くの場合紋切り型から逃れた…セザンヌがしばしば完全に(16

2013-03-09 20:02:25
彗虎 @momonokoko

紋切り型から逃れ、現実の対象の全面的に直観的な解釈を真に行なっているのは、その静物画においてである…そこでは彼は独特で、真似ができない。彼の模倣者たちは、彼流の堅い皺のあるテーブル掛けや食器類、要するに彼の絵のなかの現実性を欠いた対象を真似る。しかし彼らは水差しやりんごは(17

2013-03-09 20:07:40
彗虎 @momonokoko

真似ようとはしない。なぜならそれは不可能だからである。彼のりんごがもつ真の特性を模倣することはできない。各人が自分自身でその新しい別の特性を創造しなければならないのである。その特性がセザンヌのそれに似た瞬間から。それは何ものでもなくなる…」(18

2013-03-09 20:10:51
彗虎 @momonokoko

紋切り型、紋切り型、相も変わらず紋切り型である。ぜザンヌ以降、状況が改善されたなどど言うことはできない。われわれの周囲、われわれの頭の中で、あらゆる種類のイメージの増殖があっただけでなく、紋切り型への反作用そのものが紋切り型を生み出している。抽象絵画でさえもその紋切り型を(19

2013-03-09 20:14:41
彗虎 @momonokoko

進んで生み出した。「これらの管や波打つ金属板の震え、それらはすべて、何ものにもまして馬鹿ばかしく、その上、ひどく感傷的である。」模倣者たちは皆、紋切り型から開放されている当のものからさえ、常に紋切り型を再生した。紋切り型に対する闘いは一種凄まじいものである。ローレンスが(20

2013-03-09 20:19:41
彗虎 @momonokoko

述べているように、一個のりんごそして一、二個の花瓶に成功し、勝利を獲得したということだけですでに十分素晴らしいことである。日本人の画家はそのことを知っている。たった一本の草木のために全生涯をかけても悔いはないということを。偉大な画家が自分の作品に対して非常に厳格であるのも(21

2013-03-09 20:23:45
彗虎 @momonokoko

その故である。多くの人々は写真を一種の芸術品とみなし、剽窃をある種の大胆さ、パロディを一種の笑い、さらになお悪いことに意味のない着想を一種の創造とみなしている。しかし偉大な画家たちは、真の笑い、真の歪曲を獲得するには、紋切り型を切り刻み、痛めつけ、パロディ化するだけでは(22

2013-03-09 20:27:50
彗虎 @momonokoko

十分ではないということを知っている。(23

2013-03-09 20:29:35