「最良のすべ」を知るのは医師なのか? (髙嶌先生の連ツイ付)

それが「最良のすべ」であると判断することができるのは誰か。 そもそも「最良のすべ」とはなにか。 ※重要なのは後半部ですが、あえて前半部(一般人の感覚)も採録しました。
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道草クー太郎 @KutaroMichikusa

医師からパターナリズムを駆逐することは恐らく不可能だろう。誰かの生命を助ける最良のすべを知っている医師がそのすべを幾つかある選択肢に埋没させ、素人である市民の決定に委ねることは無理だと思うから。

2013-03-11 04:48:16
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

しかし、医師のパターナリズムを容認することと、市民が医師のパターナリズムを求めることは別の問題であり、後者はよろしくない、という問題設定は有るだろう。

2013-03-11 04:48:40
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

医師のパターナリズムと市民の自己決定を両立させるためには、市民には医師の言に流されない批判能力と知識が求められる。しかし、市民は医師と対等の知恵・知識を持たぬ以上はどこかで医師を信用するか賭けるかして従うことになる。

2013-03-11 04:49:02
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

それは、市民が医学専門書を独学している内に助かる命も助からないという至極簡単な事実による。高度に専門分化した分野について素人の自己決定は、どこで専門家を信じるかの線引き判断することとほぼ同じことではなかろうか。

2013-03-11 04:49:47
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

専門家が誘導しようとすれば誘導できる領域が不可避的に残される。その領域は専門性が高いほど大きい。

2013-03-11 04:53:38
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

他人に自己の運命の幾ばくかを委ねざるを得ないのは、分業によって成立している社会に生きる人間の宿命ともいえる。個の自立を建前や理想とする市民社会も現実には分業による「共同体」的構造から自由ではない。完全なる自由は死とも背中合わせだ。

2013-03-11 04:54:35
水無月 @minadukiG

https://t.co/uKY28XLqxq 「誰かの生命を助ける最良のすべを知っている」のは医師だろうか。自己の人生を自己のものとして生きる自立した人間ならそうは考えないと思うが。医師は身体を永らえる方法の幾つかに心当たりがあるかもしれぬ。が、どれが最良かを知るのは本人のみ

2013-03-11 07:27:42
水無月 @minadukiG

冒頭でこのようにつまづいてしまったので、これ以降の意見の不一致は言及する意味も見出せず…。 なんとなく感じるのは、道草さんはこれまで誰かの死を看取った経験があるのかな…ということ。医の現場では、道草さんの想像よりインフォームドコンセントは進んでいると思う。 @minadukiG

2013-03-11 07:34:50
水無月 @minadukiG

どれが最良かなんて、生死のかかる場面では医師もわからないのが本当だと思う。医師は、この治療法なら~~となる可能性が高く予想される副作用は~~で費用はこの程度、別の方法なら~~で…、また別の方法だと…というような話をしてくれる。他の医院を勧めることもある。 @minadukiG

2013-03-11 07:43:36
水無月 @minadukiG

もちろん救急車で運ばれたような緊急事態は別だ。否応もなく医師の判断に委ねられる。とはいえ、晩発性の放射線障害を話題にする場合には、それほどの緊急性はない。なにしろ晩発性なのだから。 @minadukiG

2013-03-11 07:49:00
水無月 @minadukiG

医の現場では、「誰がその費用を支払うか」が大変シビアに問われる。現実を見れば、費用を支払う者に決定権がある(費用を支払う人と患者本人が信頼や愛情で結ばれていることが望ましい)。カネも出さずに口だけ出す医者など現場にはいない。 @minadukiG

2013-03-11 07:53:19
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

最良のすべの「最良」がいかなる判断によるものかを医師が市民に説明する。その根拠は大抵は統計的な評価と予測に基づくのだろう。予測が外れた場合の深刻度が低ければ大抵の市民は無視できない外れ確率でもその予測に従うと思う。

2013-03-11 10:14:01
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

しかし、予測が外れた場合の深刻度が高い場合は事情が異なる。市民は確度の高い賭けも避けて、深刻度はより低いが健康をある程度犠牲にする方法があればそちらを選ぶ可能性がある。甲状腺問題は数字的にはこちらに属する問題。そして子どもが犠牲になる。

2013-03-11 10:14:23
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

また、予測が外れた場合の深刻度が高い場合であっても医師の説明に従う市民もいる。しかし、本人が納得したつもりでも、従った結果が悪く出た時には「納得させられた」という感情が湧き起ることもある。

2013-03-11 10:15:06
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

現実問題として素人である市民は「納得した」と「納得させられた」の区別に曖昧なところがある。その感情に起因する訴訟リスクから医師や病院を守るために市民は同意書に判を押すことを求められる。

2013-03-11 10:15:25
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

私は過去3回ほど治療方針の同意書に判を押した経験があるが、捺印を求められること自体に「後から文句は言わせない」縛りをかけられたと思い複雑な気分を味わう。どこかで「納得させられた」という心理が残存しているからかもしれない。

2013-03-11 10:15:41
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

親は、子どもの生命を救おうと必死になればなるほど相対的に低い他のリスクを度外視しても確実に子どもが生き残れる方法に目移りする傾向を持つ。命と比較して他の健康リスクが度外視できるようなものであるかどうかの判断が「定量的なリスク比較」に収まるのかどうか、今一つ納得がいかない。

2013-03-11 10:23:09
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

しかし、手術無しでもわが子は健康に暮らせたかもしれないと思うたびに親は胸を締め付けられる。その精神的苦悶は子どものそれを上回るに違いない。その意味では、犠牲になるのは子どもだけとは言えないと思う。

2013-03-11 10:23:28
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

そういう賭けを親子に強いるのが原発事故の特別な深刻さである、としか今は言えない。引き続き考えたい。

2013-03-11 10:24:43
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

思い出した。私の足には幼い頃の火傷の痕がある。母の失策で負ってしまった火傷。小学校でプールに入るたびにケロイドを他人に見られるのが鬱であった。今も友人と温泉に行く時は少し気になる。見て心地良いものではないから。

2013-03-11 12:10:01
道草クー太郎 @KutaroMichikusa

大人になり子を持つ親になってから、母が一番苦しんだに違いないと考えるようになった。子どもの頃からの母の優しさや、今から振り返ると甘やかしであったあれこれ全てが、あの火傷に起点があったとすら思えるのだ。

2013-03-11 12:11:35