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まとめ管理人 @1059kanri
武家の棟梁の官職としては、名誉称号に近い征夷大将軍よりも、「幕府」を形成できる右近衛大将の方が重要だった感じがしますね。実際室町時代は将軍任官よりも右大将任官のほうが大きなイベントだったフシがあります
まとめ管理人 @1059kanri
そんな事を今日の更新見ながら思う
お菓子っ子 @sweets_street
@1059kanri 徳川家の将軍も代々内大臣・右近衛大将に任官していますね
まとめ管理人 @1059kanri
@sweets_street そこなんですよね。右大将だからそれが長となって形成する政権が「幕府」になるわけでw
お菓子っ子 @sweets_street
@1059kanri 室町将軍は近衛中将か左馬頭に任官するのが慣例だったようです。左馬頭は武家にとっては特別な官位なので、武家の棟梁としての資格を官位で示したのでしょうね
まとめ管理人 @1059kanri
@sweets_street 室町将軍の格式が成立するのは足利義満の時代ですね。「義満みたいな人」が、足利将軍ということになりますw
お菓子っ子 @sweets_street
@1059kanri 室町将軍は公家的ってイメージがあったけど、官位を見ると武家の棟梁であることを強く意識してたみたいです
まとめ管理人 @1059kanri
@sweets_street 室町幕府は公武合体政権だから、公と武の二面性があるのですよね。
まとめ管理人 @1059kanri
じゃあ征夷大将軍とは何なのか、といえば、正しく「源頼朝が就任したから」意味を持った称号に過ぎず、執権北条氏が頼朝の血を直接には引かない摂家将軍や宮将軍に、その正当性を付加する「頼朝以来の伝統」として権威づけたに過ぎない
マクラナ・ガレ @mcranagalle
@1059kanri 頼朝就任当時、本人はどんな思いだったのでしょうかねえ?清盛は太政大臣にして帝の外祖父。それに比べるとかなり低い
まとめ管理人 @1059kanri
@mcranagalle 頼朝は将軍権威ではなく「右大将」として政権を作っていますね。頼朝は特に征夷大将軍に就任したかったわけではなく、「大将軍」ならなんでも良かった、というのが本当のようです
まとめ管理人 @1059kanri
執権北条氏が征夷大将軍に熱心に権威付けを行ったのは、朝廷官位として特に実権を持たず、公家の権益を犯さない、、装飾としてちょうどいい官職だったためと考えられる。つまり消去法で選ばれた
まとめ管理人 @1059kanri
しかし、鎌倉時代も時が過ぎていく間、征夷大将軍位が北条氏の意図を超えて象徴性を高めてしまった。武士統合のシンボルになりうる権威を結果的に持ってしまった。これが室町幕府への流れを作るわけですね
まとめ管理人 @1059kanri
室町時代になっても征夷大将軍は、武家の棟梁を表す様々な要素の一つに過ぎませんでしたが、鎌倉時代と違って河内源氏の足利氏が将軍職を独占する中、義満の時代に征夷大将軍と源氏を結びつけ、足利宗家の家職化が進みます。この時征夷大将軍と源氏ははじめて、強力に結び付けられました
まとめ管理人 @1059kanri
足利宗家によって征夷大将軍は独占されましたが、これによって逆に、足利宗家の長は征夷大将軍という地位に規定されることにもなりました。体制が安定している間は良かったのですが、それが崩れると将軍の位さえ確保すれば足利政権を掌握できる事になります。これが暴露されたのが明応の政変ですね
まとめ管理人 @1059kanri
征夷大将軍が「すべての武士の主君」という概念になったのは、実際には「事実上すべての武士の主君であった足利宗家の長が征夷大将軍だったから」ですね。実態が概念化されて征夷大将軍という官位に付加された、という。この認識は戦国期、将軍権威が没落する中でも生き続け、江戸期に再定義されます
まとめ管理人 @1059kanri
つまり「征夷大将軍」なるものも、歴史の流れの中でたまたま、武家の棟梁を象徴する官位となっていったわけで、そのそもそもは朝廷が与えても痛くもなんともない、実権を伴わない名誉称号だったため、という実態があったということですね。後の、特に江戸期の強大な征夷大将軍権威は、結果にすぎない
まとめ管理人 @1059kanri
そんなことをぐるぐる深夜に考えていましたw

コメント

きゃっつ(Kats)⊿1/19日向坂京都個別 @grayengineer 2013年3月16日
ちょっと違うかな、と思うのは、征夷大将軍は臨時職、令外の官だったわけで、本来は常設ではなく蝦夷の討伐軍を率いる役割だったということに意味がある。つまり鎌倉幕府の支配権の実体はおもに地頭にあったわけだが、地頭の設置は名目上、義経追捕の目的であり、軍事行動下における特例的な軍政のための権限に基づいているので、そういう意味で討伐軍臨時司令官としての征夷大将軍が都合がよかった。これはおそらく大江広元あたりが考えたことだろうと言われている
きゃっつ(Kats)⊿1/19日向坂京都個別 @grayengineer 2013年3月16日
現代的に言うと戒厳令下に軍政を敷く、という名目で軍事政権の権威と正当性を裏付けたい、という観点から、なんとか防衛軍司令とか、なんとか討伐軍司令、みたいな職をもらおうとする、というのに近いと思う
きゃっつ(Kats)⊿1/19日向坂京都個別 @grayengineer 2013年3月16日
そういう起源があって、後には「つまり征夷大将軍は武士政権の正当な長としての地位」という観念だけが独立して普及していったのであろうと考えられる
きゃっつ(Kats)⊿1/19日向坂京都個別 @grayengineer 2013年3月16日
考えてみればわかるけど、いま自衛隊の幕僚長に任命されたり、北部方面軍司令に任命されたからといって、行政的権限は何もないわけで、政権を形成するのは無理だけど、もし戒厳令が法的に整備され、戒厳令によってたとえば「首都治安維持軍司令」みたいな職に行政権も含めて全権が委任されるみたいな制度になったら、軍事クーデターを目論む人間が目指すのはその職になるだろう。そういうことなわけですよ、つまり
きゃっつ(Kats)⊿1/19日向坂京都個別 @grayengineer 2013年3月16日
このことを裏付けるものとして、幕末において「幕府は朝廷から政権を預託されているに過ぎないので勅命は幕府の意志に優先する」とする尊王論と、大政奉還の理論的根拠としてもその政権預託説が有効であったことにあらわれている。あくまで「臨時的な軍事行動に伴う一時的軍政のために朝廷から権限を与えられているにすぎない」という意味で本来的な征夷大将軍の意味、位置づけは生きていたとも言える
鉄底海峡 @tetteikaikyou 2013年3月16日
@1059kanri …じゃあ、暗黒大将軍でも…。いや、なんでもないです、ごめんなさい。>頼朝は特に征夷大将軍に就任したかったわけではなく、「大将軍」ならなんでも良かった
春川柳絮@日曜日 東-ム19b @ryo_jo 2013年3月16日
ここら辺は、オクタウィアヌス・アウグストゥスがローマ皇帝を作ったときと同じく、「軍事・内務を執行できる実権職」「臨時大権を持つ職」「権威を構築する名誉称号」をあわせることで元の国家元首を抱いたまま実質的な君主になるって言う上手いやり方だと思う。本来の職だけじゃたりなく征夷大将軍を合わせる事で独立支配者が存在できるようになった。
Yuki Miya@ζῷον μόνον @felicitas01ARB 2013年3月18日
事実関係で些か気になった点を。①頼朝は右大将として「政所」を作りましたけど、直後に同職を辞官して「前右大将家 政所」としています。②左右近衛大将は律令制上の最高位武官でしたけどその本務は「禁中警護」であり在京が前提されていました。③ただし「令下の官」の「征夷大将軍」それ自体には政務権限があった訳ではありません。
Yuki Miya@ζῷον μόνον @felicitas01ARB 2013年3月18日
「鎌倉殿」頼朝は武士集団による実効支配権を確立しており、その実効支配権を表象する「肩書き」として「征夷大将軍」が選ばれたらしいです。武士集団の実効支配権が実朝殺害以降も継続し承久の乱で強化されたため、この「征夷大将軍」が宣下で任じられる「武士政権の長」と観念されるようになったのでしょう。
Yuki Miya@ζῷον μόνον @felicitas01ARB 2013年3月18日
室町幕府は初代尊氏の時点では北朝と不可分一体のものだった点にも注意が必要かと。当時は南朝の方に政治的優位があった訳です。義満は、北朝の朝廷における権限も強化して「武士」「公家」双方の頂点に立った上で「南北朝統一」を果たしています。後継者の義持は、義満の朝廷政策に否定的な面もありましたので、義満をもって室町将軍のプロトタイプとするのは些か微妙かと…
Yuki Miya@ζῷον μόνον @felicitas01ARB 2013年3月18日
余談ですけど、アウグストゥスの権限の根幹は、①軍事指揮権は伴わないものの最強の拒否権を持つ政務権限(護民官職権)と②現職執政官をも配下に置く最強の軍事指揮権(上級命令権)の二つで、これにより「国家元首=執政官」を配下に置く「皇帝」となっています。
水野修平 @mizunosyuhei 2013年12月23日
実は頼朝の征夷大将軍の就任の経緯について、『吾妻鏡』の記述に相当の脚色があり、後白河法皇(というか)朝廷が就任を打診して頼朝の方から可能性の方が高く、また当時の征夷大将軍は権限も不定かになっていたの名目だけの職に過ぎない、という論文(北村拓「鎌倉幕府征夷大将軍の補任について」)もあったりします。
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